2‐57
殿下の意識が元の世界へと戻った後、ルイ様の体は一時的に意識がなくなった為にその場に崩れ落ちた。ルイ様を自室のベッドまで運んでくれたのは、ネル様だった。
目覚めるルイ様を待つのは、これで二度目だ。
けれど、前回のようにルイ様が目覚めるのを純粋に待っていた気持ちと違う。何かが引っかかっているような、モヤモヤとした気持ちがある。
『ちゃんと王子様は帰って来るよ。今は互いの意識を入れ替えている段階だから、あと少しだけ時間が必要なだけ。きっと夜が明ける頃には戻って来る』
「そうなのですね……」
『浮かない顔だな。どうかしたのか?』
「いえ、これで本当に良かったのかと」
殿下が元の世界へと戻る前、切なさと諦めを含んだ優しい微笑みが脳裏から離れない。
『あー、まぁな。俺もその辺色々反省もしているけどさ。……でも、大丈夫だと信じることも大事、ってやつなんじゃないか』
「そうかもしれませんね」
沈んだ笑みを浮かべる私に、ネル様は困ったように首を捻った。
『それじゃあ、俺は時空の部屋の様子でも見てくるかな。王子様が目覚めたら、また後で見に来るから』
「分かりました。ありがとうございます」
ネル様が去った部屋は、シンと静まり返った。
固く目を閉じるルイ様の手を握りしめ、目覚めを願いながら、頭の片隅にもう一人のルイ様のことを思い浮かべた。
ネル様の言う通り、ルイ様はルイ様なのだから、きっと彼は将来素晴らしい王となるのだと思う。私が共に手を携えて共に未来を歩み、支えることができなかった人。
重なることのなかった未来――彼の未来がどうか素晴らしいものになるよう、私は祈ることしかできない。
♦
どれぐらい時間が経ったのだろう。窓から差し込む朝日の眩しさに顔を歪める。
ルイ様の手を握りしめながら、いつのまにか眠ってしまっていたようだ。ルイ様の顔を覗くと、未だ眠り続けたまま。
ルイ様の右手を握った両手に自分の額を寄せ、願う。
「ルイ様、早く目を覚ましてくださいね。……早くルイ様に会いたいです」
沢山話したいことがあります。沢山聞きたいことがあります。
それでも何より、ルイ様の名を呼んで、ルイ様がそれに応えてくれる。柔らかい笑顔を向けてくれる。
つい最近まで当たり前にあった温かい日常、そんな日常が私にとってはかけがえのない一番の守りたい宝物なのです。
だから、ルイ様……早く帰って来てくださいね。
心の中でそう語り駆ける。すると、それに答える様に、握った手がピクリと動いた。
「ルイ様!」
叫びながら飛び上がる。ルイ様の顔を覗き込むと、瞼が何度か動く。私は固唾を飲みながら、ルイ様の手を固く握りながら見守る。すると、ルイ様の瞼がゆっくりと開かれて、焦点の合わなかった瞳が私を捕らえた。
その瞬間、私は時が止まったかと思った。
きっと息をするのも忘れていただろう。
ルイ様は体を動かさぬまま何度も瞬きを繰り返した。そして、くしゃりと顔を歪めた。
「……ラシェル?」
掠れた声でルイ様がそう呟いた瞬間、私は思わずルイ様に抱き着いた。腕をルイ様の首に回し必死にしがみ付き、ルイ様の胸に飛び込む。
嗚咽を隠すことなく泣き叫び、何度も何度もルイ様の名を呼んだ。
体を起こしたルイ様の手が、遠慮がちに私の肩に触れた。徐々に力を帯びて、その手は私の背に回された。私の体は全体重を預けるように、その力強い腕にグッっと引き寄せられた。
私の首に沈み込んだ顔から息を飲んだのを感じる。
「ラシェル……あぁ、本当に……ラシェルだ」
噛み締めるように呟いたルイ様の声に、胸が震えた。今すぐルイ様の顔を見たいのに、顔を上げることができない。なぜなら、今の私はきっと涙でぐちゃぐちゃな顔をしているだろうから。
そんな私の心境などお見通しのように、ルイ様の両手が私の頬を包み込んだ。そして、その包み込まれた手でゆっくりと顔を上げられる。
視線が合った瞬間、互いの気持ちが全て頭の中に流れ込んでくる気がした。
――ルイ様が帰ってきたんだ。……ずっとずっと待っていたルイ様が。
「ラシェル」
「はい、ルイ様」
私の返事に、ルイ様は何度も何度も頷いた。まるで掴んでおかなければ逃げてしまうというように、固くルイ様の腕の中に捕らえられる。その腕の中は私にとって、何よりも安心感があった。
「駄目だ、今も夢のようだ」
「私も同じです」
ルイ様が崖から落ちたと聞き、助けられないかもしれないと知った時からずっと怖かった。目覚めることがないかもしれないという恐怖心、本当にルイ様が帰って来てくれるのだろうかと不安だった。
今もまだ、ルイ様が返って来た安堵よりも、もう消えないで欲しい。もう二度と離れたくない、という不安で押しつぶされそうになる。
それでも、頬から伝わるルイ様の手の温もり、涙を拭ってくれる指先、優しい眼差しで見つめてくれる瞳、ルイ様から与えられる全てが私の胸をときめかせる。
「君が目の前にいて、触れることができる。……こんな幸福を私は他に知らない」
ルイ様の揺れ動く瞳が、抱きしめる温もりが、それが真実だと言葉と同様に伝えてくれている。そして、それは私も全く同じ想いだ。
けれど、ルイ様が帰ってきたらまず伝えたかった言葉を伝えよう。
ずっとずっと待ち望んでいたルイ様。
どんな困難があったのかも私には分からない。けれど、それを乗り越えて、今私の目の前にいてくれるのだから。
「あの、ルイ様……おかえりなさい」
ルイ様はポカンとした表情で、私をじっと見つめた。だが、すぐにルイ様の綺麗な顔が歪んだ。
顔を背けて、眉を顰めながら唇を噛みながら笑みを作るルイ様の目は、潤んで今にも零れてしまいそうだ。
普段、守ってくれる大きな背中を僅かに震わせるルイ様を見て、あぁルイ様も怖かったんだ。と、そう思った。
けれど、もう一度こちらを向いた時、ルイ様は目を細めて破顔した。
「あぁ。……ただいま、ラシェル」
その言葉を聞いて、ようやく本当の意味で、呼吸を出来た気がした。体全身に酸素が巡り、ぽかぽかと温かくなる。
目に映る全ての彩を鮮やかに変えた。部屋の外の花の蕾が一気に咲き誇り、風に乗って色とりどりの花びらや香りが辿り着いた。そんな気がした。
♦
離れていた時間を埋めるように、私とルイ様は互いにあったことを語り合った。
ようやく気持ちの落ち着き、互いの状況を整理した頃には日が暮れようとしていた。
私は離宮の3階にルイ様を案内した。大きな広間にあるバルコニーは、庭園、湖、空を一望できる私のお気に入りの場所の一つだった。
「あぁ、凄いな。どこまでも星空が続いているようだ」
見渡す空は雲一つなく、沈みゆく夕日が空一面を茜色に染めている。ゆっくりと茜色を飲み込んでいく群青色が、心を穏やかに、そして儚く切ない気持ちにさせる。
その紺色のグラデーションの空で、瞬く光を見つける。
「ルイ様、一番星ですよ!」
「あぁ。空はこんなにも広いのに、真っ先に光るあの星を見つけると、特別なようで嬉しくなるな」
「分かります。一番星を見つけると子供のようにワクワクしてしまいますね。でも、今日は特別……いつもに増して綺麗に見えますね」
星を眺めながら感嘆の息を吐く。
そっとルイ様を見ると、ルイ様は楽しそうに目を細めた。
「どうして? 私と一緒だから。なんて己惚れても良い?」
夕焼けのせいだろうか、ルイ様の頬がいつもよりも赤く染まって見える。だが、微笑むルイ様の顔を眺めると、その滲み出る色気にこちらまで顔が火照ってしまう。
何も言えなくなる私に、ルイ様は楽しそうにフフッと笑い声を漏らした。
「あまりからかわないでください」
「それは出来ないな。だって、こんなに可愛いラシェルが隣にいるのに、からかうなっていうのが無理だよ」
恥ずかしさに思わず顔を背けてむくれる私に、ルイ様は楽しそうに更に笑った。
離れていた時間を思えば、こんなにも楽しく笑い合える日常がまた来たことに、胸がジンと熱くなり、枯れ果てたと思った涙がまた溢れそうになる。
ルイ様はそんな私に、優しく微笑んで、頭を撫でてくれた。
「ここはラシェルのお気に入りの場所?」
「そ、そうなのです! 闇の精霊の地は、自然が豊かで空気も澄んでいるので、川辺には蛍も沢山いるのですよ。今は暗いですが、とても美しい湖や庭園も素敵です。ここからはそんな精霊の地の美しさが一望できます。それに、何といっても本殿の神殿が……あっ」
「ん? どうかしたか?」
『ルイだー』
「あら、クロ!」
その時、開けっ放しになっていたバルコニーの扉から、ひょこっと現れたクロは椅子に座った私の膝に軽々と飛び乗った。
「久々だね」
クロの頭を撫でるルイ様に、クロは気持ちよさそうに目を閉じて耳を下げた。
『ルイが帰って来てラシェルが嬉しいって。だから、クロも嬉しい』
「そうか。私もラシェルやクロに会えて嬉しいよ。それに、クロは想像通り話す姿も可愛らしいね」
「ルイ様はクロが話す姿は初めてですものね。精霊の地では、精霊と意思疎通が図れるのが良いですよね。そういえば、光の精霊の地ではルイ様の契約精霊ともお話したのですよね」
「あぁ、そうか。ラシェルはヴァンに会ったことがなかったね」
「はい。ですが、ルイ様のご都合もあるでしょうから。私はいつかルイ様が紹介したいと思った時に、ぜひお会いしたいです」
「早めに会わせたいとは考えていたが、まずは王族と精霊の契約について説明しなければと考えていたから。だが、ヴァンの話が出た、今が話す良い機会なのかもしれないな。……実は私の契約精霊は、ここにいるんだ」
ルイ様の契約精霊が鷹であることは、以前聞いたことがある。だが、こことはどういうことだろうか。
首に掛けたチェーンを引っ張り出したルイ様は、そんな私の疑問に答えるように首から外したペンダントを指し示した。
「ペンダント……ですか?」
「あぁ。手を出して」
王家が精霊と契約する際は、通常と違い秘匿されたことが多い為、そのペンダントが何を表すのか分からず困惑する。
そんな私に手を差し出すよう伝えたルイ様の言葉通り、手をテーブルの上へと乗せると、私の手のひらにルイ様は自身の大切なペンダントを置いた。
「ペンダントの刻印を見て」
「美しい琥珀色……中に鷹が描かれていますね。以前ルイ様に頂いた契りの指輪にどこか似ている気がします」
「あぁ。私の紋章である鷹は、私にとって身近な存在だ。だから、契約精霊が光の中位精霊、しかも鷹の精霊が現れたことにはとても驚いた。同時に、やはり鷹は私にとって特別なんだと改めて感じたよ」
優しい顔でペンダントの魔石を指で触れるルイ様に、思わず見惚れてしまう。その表情だけで、いかにルイ様が契約精霊を大切に思っているかが分かる。
「ぜひ今度紹介してくださいね」
「もちろん。普段はどっしりとしていて動じない奴なんだが、時空の部屋に入る時は緊張していたみたいで、そんな姿は珍しくて可愛らしい一面が見られたよ」
「ふふっ、そうなのですね。あら、クロも気になるようですね」
膝の上で大人しくしていたクロが、テーブルに乗り上がり、ペンダントを手で突いていた。その様子を見たルイ様は、「今度クロにも紹介しないとな」とにこやかにクロの頭を撫でた。
その時、クロの耳がピクリと動き、クロがキョロキョロと辺りを見渡した。
「クロ、どうかしたの?」
『来たよ!』
「来たって、誰が?」
クロの言葉に、私とルイ様は顔を見合わせる。だが、辺りには誰もおらず、クロが何を指して《来る》と発言したのかが分からない。
だが、その時ふわりと柔らかい風が吹き抜けたその瞬間。
『誰って、俺だろ。後で顔出すって言っただろう?』
バルコニーの手摺の上に座り、こちらに手を振る闇の精霊王ネル様が現れた。手摺りから飛ぶように降りる姿は、まるで鳥のようで体重を感じさせない。
「闇の精霊王! いつの間に……。いえ、この度はありがとうございました」
驚いたようにガタッと座っていた椅子から立ち上がったルイ様は、最初こそ戸惑う様子をみせたが、すぐに冷静さを取り戻す。そして、ネル様に頭を下げた。
当のネル様は『よっ、王子様。おかえりー』と軽い挨拶だけをしながら、ルイ様の肩を労うようにポンポンと叩いた。だが、目を輝かせながらある一点へと視線を固定したまま、こちらへと歩み寄った。
『そうそう、お前たちを精霊の地から出す日だけど、明日になったから』
「明日ですか? 急ですね」
『まぁな。俺としてはずっとお前にいて貰ってもいいけどさ、光のおっさんからチクチク言われちゃってさ。人間を長く精霊の地に入れて置くなー、とか。私を面倒に巻き込むなー、とか……色々』
ネル様は光の精霊王とひと悶着があったようで、それを思い出してかムッとむくれながら髪を掻いた。
「そうですよね……」
いつかは帰らなければいけないと思っていた。それに、精霊の地の居心地の良さもあり、時間を忘れていたのもあるかもしれない。
それでも、元の人間世界についてはいつも気がかりだった。
あの後、オルタ国の王宮はさぞ混乱に陥っただろうと。命を落としそうなルイ様と私が同時に消えてしまったのだから。
『何が気がかりなんだ? 浮かない顔をしている』
「随分と長居をしてしまったので、きっと皆私たちを探しているだろうと思いまして」
『あー! そっか、そっか。連れて来た時にその辺説明してなかったのか』
ネル様は私の反応に、何かを思い出したように一人、うんうんと頷いた。そして、にっこりと邪気のない笑みをこちらに向けた。
『戻るのは、ここに来た日と同じ日、同じ時間だ』
――戻るのは、ここに来た日? ということは、私たちが精霊の地に来た瞬間に、今の状態の私たちを戻すということだろうか。それとも、戻った先はルイ様が傷を負った状態にある、ということだろうか。
ルイ様の方へ顔を向けると、ルイ様は顎に手を当てて何かを考え込むように口を開いた。
「同じ日同じ時間ということは、私が命を落としかけた日、ということですか」
『うん、そういうこと』
ネル様はあっけらかんとした様子で、神妙な顔をしたルイ様に答えた。
「ですが、その状態ではルイ様の体は……」
私の懸念点はネル様にも伝わったのか、ネル様は私たちを安心させるように『問題ない』と告げた。
『俺は時間を過去に戻すことができる精霊王とはいえ、流石に折角体を癒したにも関わらず、その傷まで元に戻すことはしないって』
その言葉に、私とルイ様はほっと胸を撫で下ろした。
『あー、でも流石にあの状態から急に健康体になったら、周りはかなり驚くかもな。その辺はうまく説明しろよ!』
ネル様のおどけた物言いに、私とルイ様は顔を見合わせて笑った。そんな私たちを見たネル様もまた、楽しそうに笑みを深めた。