2‐55 もう一人のルイ視点
頭の中でパチンと指を鳴らす音が弾ける。その瞬間、私は先程までと同じ、精霊の地で与えられた部屋に立っていた。
先程と同様、闇の精霊王はソファーに優雅に腰掛けていた。
『おかえり。さて、時間がないようだけど?』
精霊王は私がどう行動するかなどお見通しだと言うように、手を扉の方へと翳した。私は精霊王へ頭を下げて、急いで扉へと足早に進む。視線の端で、精霊王が楽しそうに手を振りながら『頑張れよー』という声に再度礼をしながら、部屋を後にした。
向かう先は、もちろんラシェルの部屋だ。
あの白い空間でどれほどの時間が過ぎていたのかが分からないが、頼むからまだ起きていてくれ、と祈りながらノックする。
返事をしながらひょこっと扉から顔を出したラシェルは、私の姿に驚いたように目を丸くした。
「殿下! どうされたのですか?」
「良かった、まだ起きていてくれて。こんな夜更けに急に部屋を訪ねてしまい、本当にすまない。……実は、挨拶をしにきたんだ」
「挨拶、ですか? 何の……。あっ……」
私の只ならぬ気配を察知したのか、ラシェルは口に手を当てて目を見開いた。
「そう。帰るんだ。元の世界へ」
今日を最後にラシェルと会うことはない。だから、最後の挨拶はかっこつけようと思っていた。笑顔でありがとう、さようなら、と。そう伝えようと思っていた。
なのに、ラシェルを目の前にすると、どうも上手くいかない。
何を伝えればいいのか、何と言えばいいのか。普段ならよく回る口も役に立たないし、いつもなら無意識でも綺麗に微笑むことができる表情も、頬の筋肉が強張ってしまう。
今、私はきっと情けない顔で笑っているのだろう。
けれど、ラシェルは「少し待っていてください」と私に告げると、部屋の中からショールを持ってきた。そして、2人でよくお茶をしていた庭園へ向かうことを提案された。
夜の庭園は、とても静かでどこか寂しさがあった。間隔を開けながら並ぶ魔石のガーデンライトが花々を柔らかいオレンジに染める。
耳に入るのは、草を踏む音、風のそよぐ音、そしてどこからともなく聴こえるピアノの音だった。
「精霊が弾いているのでしょうね。音楽好きな精霊が時折、色んな楽器を弾いているのをご存知ですか?」
「あぁ。窓を開けると時々美しい音が流れてくることがある。今日もとても優しい響きだ」
こんな風に2人でこの音に耳を傾け、時間を忘れられたらどれほど幸せなのだろう。そう考えるだけで、必ず帰るともう一人の自分に約束した決心が揺らぎそうになってしまう。
「ラシェル」
私の呼び掛けに、ラシェルは足を止めてこちらへと体を向けた。
「情けないな。最後だというのに、何を言っていいのか分からない。色んなことを伝えたいのに、心の中がめちゃくちゃなんだ。もう時間は迫っているのに」
「整理などしなくて大丈夫です。殿下の心内をそのまま聞きたいです」
「ありがとう。だが……」
――心の中を丸裸にして、そのまま君に伝えたら、きっと君は私のことを嫌悪するかもしれない。あまりにもかっこ悪くて醜いから。
「大丈夫です。殿下はいつも私の理路整然としていない話に、しっかりと耳を傾けてくださいました。私は、殿下が私に伝えたいと、話したいと思ってくださることなら何でも聞きたいです」
ラシェルの微笑みは、私の心を解しほっと息を吐ける優しさがある。自然とありのままの自分の姿を見せて、受け入れて欲しいと願ってしまう。
心の隅で、きっと彼女なら受け入れてくれると、そう甘えてしまうんだ。
「あぁ。それじゃあ、包み隠さず今の気持ちを話したい」
私がそう言うと、ラシェルは嬉しそうに笑った。その笑顔が、私の背中をそっと押してくれるような気がする。
「私は自分の傲慢さを十分に知っていた。自分は選ぶ側の人間だということを。それは王太子として生まれたからには、必然であり必須だった」
自分の選択で国が傾く。自分の選択、発言の重要性を理解していたから、何かを選ぶ際には、選択肢を用意し、その中から最善を選んできた。
だから、選ぶのはいつだって自分だと傲慢にも思っていたのだろう。それに違和感も疑問も持ったことはない。
「いつでも階段の数段上った場所から見下ろしていたのだろう。婚約者であるラシェルに対してもそうだ。並ぼうともしていなかった。だが、もう一人の私はきっと違う。そして、君もまた違うのだろう。隣に並び立ち、共に手を携える。そんな対等な関係であるからこそ、想い合い、自由で、眩しく感じるのかもしれない」
「殿下……」
「そんな君たちの姿を容易に想像できるからこそ、羨ましいと感じると同時に苛立ちを感じていたんだ。……何故、この世界に来てしまったのだろうと」
そう、この世界に来てラシェルを知れば知るほど、彼女に惹かれた。同時に、ぐつぐつと胸の奥が粟立ち、イライラと落ち着かない気持ちにさせられた。
――何故今更目の前に現れたんだ! こんな気持ちを知らなければ良かった。忘れられるのか。初めて心動くこのどうしようもないやるせなさを。
「違う。こんな気持ちは自分のものじゃない。この体の持ち主がそう思わせるんだ。早く戻らなくては。ここにいたら、自分が自分でなくなる。嫌だ。嫌だ嫌だ……と、そんな子供じみた気持ちは初めてで、どうすれば分からなくなって苦しかった」
笑顔を向けられることがこんなにも胸を締め付けられるなんて、知らなかったんだ。
だけど、これは嘘じゃない。本当に、君の笑顔に、君の心に触れたかった。
「もっと大切にすれば良かった。もっと君の置かれた環境に目を向ければ良かった。テオドールの話をもっとしっかり聞いておけば良かった。何度も彼女自身をしっかり見ろと助言をくれたのに。……もう、全てが遅いのに」
彼女が亡くなってからも、一番に彼女に向き合い続けたのはテオドールだったのだから。あの助言を聴く耳さえあれば。そうすれば、君を失わずに済んだのかと考えずにはいられない。
どうすれば良い。何をすれば良い。
今、私が過去に戻ることができるのならば、きっと君を失わないために善処しよう。
だけど、どう願ってもそれは叶わない。ならば、私にできることは何なのだろう。
心にぽっかりと穴が開いた気がする。そして、それは二度と埋まることがないのかもしれない。
「……君の幸せを祈るよ」
そう口にしたところで、本心では嘘かもしれない。
私の目の届かないところで、君が幸せに笑っている姿を想像できるか分からない。
「遠く離れていようが、世界が違おうがきっと君たちの未来は輝くだろう」
それを自分は本当に願っているのだろうか。
「君は君の世界を。私は私の世界をしっかり生きよう」
叫びたい。
君をこのまま連れ去ってしまいたい、と。
でも、それが出来ない。そんな勇気も度胸も決意もない。だから、彼は君が守れて、私には出来なかったのかもしれない。
「幸せになってくれ」
いや、きっとこの言葉だけは、この願いは嘘じゃない。
どうか、君を知ることさえなかった私のことなど忘れて、幸せになってくれ。
「殿下も。殿下も幸せになってください」
残酷だな。君がいない世界で私の幸せを願うというのか。
だが、綺麗に微笑み本心からそう私に告げてくれているラシェルを前に、私は頷いた。
「もちろんだ」
笑顔で君の言葉を受け入れる。それを君が望むのなら。それが私にできる今一番の君への償いなのだから。
「⋯⋯どうか私のことは忘れて」
「いえ、忘れません。絶対に」
視線を逸らしながら告げようとした言葉は、ラシェルの力強い言葉に掻き消される。そして、その言葉は、心のどこかでラシェルから聞きたかった言葉だったのかもしれない。
ラシェルの言葉、視線でストン、と全てに納得した。
――そうか、そうだったのか。こんな君だから、彼は惹かれたのか。そんな君だからこそ、私は惹かれたのだろう。
「ありがとう。……すまなかった」
「私も。ごめんなさい、殿下」
一度食い違った歯車は元に戻らないかもしれない。それでも、共に回った歯車を、共にいられた時間を得たことを私は忘れない。
「泣いて⋯⋯くれる⋯⋯のか?」
ラシェルの訃報に涙の一滴も流さなかった私に向けて?
「あっ、すみません」
「……いや、ありがとう。ありがとうラシェル」
愛らしい猫のような少し吊り上がった目が潤んだ様に、胸が締め付けられるようだ。
零れ落ちる雫は私にとってあまりに綺麗で、自分の汚い心もくだらない見栄も嫉妬心も全てを浄化してくれるような清らかさがある。
今なら素直になれる気がする。
「ラシェル。私の名を呼んでくれないだろうか。……私だけに向けて」
どうか今だけは。彼女がたった1人に向ける呼び名を、独占させて欲しい。
きっと生涯でたった一度だろうから。二度と彼女の口から告げられる自分の名は、自分に向けては呼ばれないだろうから。
たった一度だけ。それだけで、きっと私は彼女がいない世界であっても、そのたった一つの思い出を大事に大事に宝物として取っておける気がするから。
「はい、もちろんです」
ショールを羽織り直したラシェルは、改めて顔を上げた。
「ルイ様、私はあなたともう一度会えたことを、あなたと過ごした日々を忘れません」
この世界にきてから、ずっと変わらない真っ直ぐな瞳を向けて、ラシェルは私にそう言った。嘘と欲にまみれた世界に生きてきた私にとって、ラシェルの言葉は真実を語りかけてくれる輝かしく温かい存在だった。
「……ありがとう。ありがとう、ラシェル」
この気持ちが恋だったのか。愛だったのか。自分の心に芽生えたものへの言葉は見つからない。
だけど、きっとこれから先の長い人生で、ここまで満たされる気持ちを持つことはないだろう。
君にとってはきっと一瞬の出来事だったかもしれない。それでも私にとって、それはこれから先色褪せることがない永遠の時間になるのだろう。
だから、最後にわがままを許して欲しい。
「君を婚約者にできた私は、世界一の幸せ者だったのだろうね」
私の言葉に驚いたように目を見開くラシェルの手を掴み、そっと抱き寄せた。ダンス以外でこんなにもラシェルを近くに感じたことはない。
頬を擽ぐるウェーブの黒髪に触れるか触れないかの場所に、そっと唇を落とした。
ラシェルを抱き寄せる私の体から、キラキラと光の粒が溢れ出した。徐々に指先の感覚が抜けてきて、すぐ近くにいるラシェルの輪郭がぼんやりとしてきた。
「殿下……殿下!」
「ラシェル、どうか笑って欲しい。……その姿を、目に焼き付けたいんだ」
意識が遠のいていくのを感じる。だが、最後まで瞬きせずに全てを目に焼き付けよう。彼女の笑顔を、温もりを。全てを忘れないように。
もう一度手を懸命に伸ばした手は、ラシェルに届くことはなく、空を切る。
潤んだ瞳を向けながら泣くのを我慢するようにぎこちない笑みを浮かべるラシェルを、綺麗だなと思った。
その瞬間、私の意識はプツンと途切れた。