2‐54 ルイ視点
光の精霊の地で、元の世界へと戻ることが出来なった私は、その場に立ち往生していた。成す術なく茫然とする私とテオドールに、光の精霊王は手を貸すことはなかったが、一際大きな光に手をかざすと、何かに納得するように頷いた。
『闇が動く、か。私が何かするまでもなく、其方は闇に呼ばれる。そこまで時間を進めてやろう』
光の精霊王の言葉の意味が分からず、困惑の色を深める私やテオドールを他所に、光の精霊王は手に持っていた杖でコツンと床を叩いた。
その瞬間、私の体は空に浮いた。まるで、急に足元の床がストンと抜けた感覚に、体制が崩れて尻餅をつく。
――いたっ。何が起きたんだ。……というか、ここはどこなんだ?
目を開けると不思議な場所に座っていた。視界一面に真っ白な空間だ。
頭が追いつかないまま周囲を観察するため、辺りを見渡すと、自分と全く同じ顔をした人物が、驚いたようにこちらを凝視していることに気付く。
冷静に状況を読むよりもまず、カッと怒りが沸いた。
――こいつが!
こいつがもう一つの私。つまり、ラシェルが殺された世界で何もしなかった私。そして、何故か元の世界に戻ることを拒否した私。
「お前が……」
自分の口から低く唸るような呟きが漏れてきた。
もう一人の私は、唇を噛んだまま冷静な視線でこちらを見た。そんな様子に更に苛立ちが加速する。
「やはり君は辿り着いていたんだな。精霊王のいう、ゲームのゴール地点に」
「……ラシェルを傷つけていたのなら、もう一人の自分だろうが関係ない。私はお前を許さない」
私の言葉に、目の前の人物は可笑しそうに笑った。眉を下げながら嘲るような表情に、怒りが抑えきれない。
「まず何よりも彼女の名を口にするのか。……なるほどな」
「何が可笑しい!」
「いや。君と私は、本当に違う人間なんだな、と思ってさ」
「当たり前だ! 私はお前のようにラシェルをむざむざ殺させるような真似など絶対にしない! お前と一緒になどなるものか」
私の苛立ちを理解しているだろうに、笑みを深めるもう一人の自分に、心の中で大きく舌打ちをする。
「お前は……元の世界に戻りたくないと思っているのか。なぜ意識を入れ替えることを拒絶したんだ」
私が時空の部屋に辿り着いたというのに元の世界へ戻れなかったのは、もう一人の私がそれを望んでいないからだと。光の精霊王は、確かにそう私に説明した。
「呼びかけに応じなかったのは……確かにそうだ」
「何故」
尋問するように睨みを利かす。きっと今、自分の形相は酷いものなのだろう。それを肯定するように、目の前の私が困ったように眉を下げた。
「こんな世界を知らなければ良かったよ。君の体になど入らなければ……君の感情に引きずられることがなければ、気づかずに済んだことばかりだ。何より、彼女のことを知らなければ……失ったことへの喪失感など抱えずに済んだのに」
先程までいた世界のシリルやテオドールたちから聞いたこと、そしてその世界での痕跡から、もうひとつの世界の私がラシェルに対して、好意を一切持っていなかったことは明らかだ。
きっと目の前の私は、ラシェルがどんな贈り物に喜ぶのか。どこへ連れ出せば嬉しそうな顔を見せるか。どんな香りが好きでどんな花が好きか。何ひとつ知らないだろう。
にも関わらず、今のラシェルと数週間一緒にいただけで、ここまで変わるというのか。
「喪失感……だと?」
その答えに苛立ちよりもまず、失笑する。
――本当に、君は凄い人だな。
ラシェルのどこまでも真っすぐな人柄は、多くの人を魅了する。きっと、目の前の私もまた、ラシェルの変わった姿に好感を持ったのかもしれない。
それは彼女の好ましい魅力であり、私にとっては嫉妬の種だ。
「随分と勝手なことを言うのだな。ラシェルの変化に何か思うことがあったのかもしれない。だとして、それでも彼女と関わりを持たなければ良かったと本当に思うのか」
――だったら何故、私の呼び掛けに応じず、元の世界に帰ることを拒んだんだ。
「彼女の変わった姿を知らなければ、本来の彼女の姿を知らなければ……私はきっと、この先も変わらず自分の正しいと思うままに、自分の信念のみに生きることが出来た。……そう思わずにはいられない」
「……だが、それは空っぽな悲しい世界なだけだ。……一切考えたくもないし想定もしたくないが、私はラシェルを失ったとしてもラシェルを知らなければ良かったとは絶対に思わない」
ラシェルのいない世界は、とても息苦しく心にぽっかりと穴が開いたようだった。その穴が塞がることはなく、じくじくと穴は広がっていく一方で闇に飲まれていくような気がした。
今もラシェルの無事をこの目で確認するまでは、この恐怖と痛みは続くのだろう。
それが永遠ともなれば自分がどうなるか、想像さえできない。
「失った苦しさを生涯抱えるだろうし、ラシェルに会いたくて我を失うかもしれない。酒に溺れる日々になるかもしれない。それでも、ラシェルがいなければ、今の自分はいない。ラシェルを知らなければ良かったなどと、絶対に思わない」
「君の発言は、失ったことがない人間が言う言葉なのだろうね」
「あぁ、そうかもな。私にとってラシェルは唯一の人だ。かけがえのない人。だからこそ、私はラシェルをどんなことがあろうと諦めない」
彼女を奪う存在が、例え私が到底敵わない神だとしても、許しはしない。絶対に抗ってみせる。
「もちろん、自分の命を賭けようと」
私の言葉に、もう一人の私は唖然としたようだった。そして、天を仰ぎ深い溜息を吐いた。
「悔しいな。……私は君のようにはなれない」
「なられていたら困る。同じ人間だろうと、私は私だけだ」
「それもそうだな。……私には眩しく見えるよ。ラシェルも君も。たった一人への信頼と情熱を心底注げるのだからな」
悔しそうに眉を顰めながら笑みを浮かべる姿は、どこか寂しそうにも見える。
「王太子として、君たちの生き方が正しいとは思っていないが……君のことを羨ましいとは思うよ」
王太子として、か。確かにラシェルに恋をする前は、私の優先順位は王太子として国がどうなるかが全てだった。そして、もう一人の私は、人間性は兎も角として、王太子としては常に冷静で真っ当だと言える。
そんな人物が、逆に私のことを見れば、時に婚約者を優先する姿に信じられない気持ちがあるのだろう。そこに疑問が生まれるのも仕方がない。
だが、私はこの生き方に決して後悔はしない。
「このまま戻るのか……このまま」
「何が引っかかっている?」
「この空間に来てようやく冷静になれたと思っていた。君の体は私の意識が入っているとはいえ、随分と自己主張が強い。彼女への想いに私が引きずられるほどに。……そう思っていた。だが、どうやらそれだけとも言えないようだ」
何を言い出すんだ……。もう一人の私が戻る意思がない限り、私は元の世界に戻ることが出来ない。そして、あの閉ざされた世界に、ラシェルのいない世界に戻らなければいけなくなる。
もう一人の自分が何を言い出すか分からず、嫌な予感に動悸がする。
これ以上何も語ってくれるな。頼むから戻ると言ってくれ。それは、祈りのような願いだった。
だが、そんな私の心境をもう一人の私も気がついたのだろう。彼は首を横に振った。
「君の考えは分かっている。それでも、頼む。一度だけでいい。もう一度ラシェルに会わせて欲しい。……そうしたら、ちゃんと体を返すから」
「……もう一度会って何をするつもりだ」
「私は彼女を見送りもしなかったんだ。修道院へと向かう前の挨拶に応じなかった。今更後悔したところで遅いだろうが、ラシェルに対してこれ以上不誠実なことをしたくない」
「散々不誠実なことをしておいて!」
「あぁ、分かっている。これを最後にすると約束する。だから、頼む」
――ラシェルだったらどうするだろうか。彼女であれば、きっとその願いを快く叶えるのだろう。
だが、私には無理だ。
相手は自分だというのに、ラシェルとの時間を1秒でも与えたくないと考えてしまう。いや、こいつだからこそ尚更なのかもしれない。
ラシェルのことを散々傷つけておいて、あまりに都合がいいことを平気で口にすることに怒りが沸く。
「君が怒り狂うのも分かる。君が私になったように、私が君に成り代わった時間。その時間は、数週間という短い時間だ。だが、私の根本が揺らぐには十分だった」
「ラシェルは、一体君に何をしたんだ。根本が揺らぐほどの何かがあったのか」
私の言葉に、もう一人の私はふわりと柔らかい笑みを浮かべた。その表情に、嫌でも誰を思い浮かべているのかが十分に伝わってくる。
「彼女は何も。ただ誠実に私に向き合ってくれただけだ。だから、私も彼女には誠実でいたい。何より、過去の自分を許せないのは、私自身なのだから。……頼む」
誠実でいたい、か。嫌なところを突いてくる。私だって、常にラシェルに誠実でいたいと思っている。
握りしめた拳に力が入る。大きく深呼吸をして、苛立ちやモヤモヤを吹き飛ばそうと善処する。
そして、真っ白な空間を見渡しながら深く息を吸い込んで、大声を出した。
「闇の精霊王! どこかで聞いているのでしょう」
闇の精霊王の姿は見えないが、それでも確信していた。あの好奇心旺盛な神様であれば、きっと私たち2人のやり取りを、興味津々でどこかから覗いているだろうと。
『あぁ、ちゃんと聞いているぞ』
私の考えを肯定するように、精霊王の声だけがこの部屋に響き渡った。
「私は時空の部屋にちゃんと辿り着いた。元の自分に戻ることが可能なのでしょうか」
『お前たちがそう望むのなら』
声だけでも精霊王が愉快そうにニヤリと口角を上げている姿が見えるようだ。
「では、私が戻る前に……最後にラシェルともう一人の私を合わせてやって……くっ……欲しい」
もう一人の私の希望を叶える。そう決めたのにも関わらず、無駄に足掻こうとしてしまう自分を必死に抑える。
「……その変わり」
「分かっている。ちゃんとラシェルと話をしたら、約束通り元の世界へと戻るよ」
「あぁ、さっさと返せ」
「……せっかちだな」
――私にはこの時間だって惜しい。本当ならば、一刻も早くラシェルに会いたい。
それでも、私はラシェルに誇れる人間でいたい。だから、自分の気持ちを優先するならば絶対に許容できないようなことも、受け入れるんだ。
「君が君で良かったのかもしれない。私であれば、君のようには生きられているか分からない。だから……」
「ラシェルを幸せにするのは、私の役目だ」
「……そうだな」
目の前の彼は、切なそうに。そして嬉しそうに笑った。