2‐52
殿下は互いの間にある壁を取っ払い、他愛もない話をしたいと私に伝えた。壁というのは、本音を隠した表面上の会話のことだと思う。
他人行儀な会話しかしてこなかった殿下と私にとって、この闇の精霊の地での時間は、まるで初対面からのやり直しのような時間を過ごしている気さえする。
もちろん、ルイ様と過ごした3年間があるからこそ、私にとって殿下を知ることはそこまで難しくないのかもしれない。それでも、やはり話をすればするほど、ルイ様と殿下の考え方や行動の違いが見えてくるのも確かだ。
例えば、ルイ様は私と話す時に、必ず私の目を見て穏やかに微笑みながら相槌を打つ。時に、大きな声で笑ったり唇を尖らせて拗ねたり、表情豊かな気がする。
対して殿下は、どこか大人びた表情をみせる。穏やかな微笑みは同じはずなのに、相槌を打つ声も、ルイ様に比べて低く落ち着いた声だ。
だからこそ、話をすればするほど知らなかった殿下の姿を目の当たりにするようだった。
「初めて会った時のことを覚えている?」
湖畔のベンチに並びながら殿下は、組んだ手を膝に置きながら、私にそう尋ねた。
「殿下と私がですか? 確か、王妃様のお茶会だったかと」
「あぁ、そうだ。王宮庭園でのお茶会で、君は貴族として正式な王宮での集まりは初めてだというのに、自信に満ち溢れていた。王族を前にしても、臆することなく真っ直ぐな瞳をこちらに向けていた」
「……あの頃の私は、世間知らずだったのです」
過去の自分を真正面から受け止めようと決意した矢先、過去の自意識過剰だった自分の姿を思い出し、恥ずかしさに今すぐ逃げ出したくなる。
羞恥に赤くなる頬を自覚しながら俯くが、横からは楽しそうにフッと息を漏らす音が聞こえる。
「庭園の花を嬉しそうに眺める姿も、好ましくて……とても綺麗だと思ったんだ。君のことを」
殿下からそんな言葉をかけられるなど、夢にも思わず、俯いた顔をそっと上げる。すると、凪いだ瞳で湖の緩やかな波を眺め、微笑む殿下の姿があった。
「……何故忘れていたのだろうな」
その声は、独り言のようにポツリと呟かれた。
「君は? 私の印象はどうだった?」
「初対面の時ですか? そうですね。絵本で何度も観た王子様が、本を飛び出して現れたと思いました」
十歳の頃、初めて王宮のお茶会に招かれたことを思い浮かべる。数ある遠い思い出の中、王族への挨拶の際、殿下と初めて会った時の記憶を呼び起こした。
「それに、私の周りの子供たちとはどこか違う……大人びた雰囲気のある方がと感じました」
「あの頃から作り笑顔は得意だったし、子供らしさがなかったことは間違いないよ」
殿下の言葉に、思わず目を丸くしてしまう。以前ルイ様から幼少期時代の話などを聞いたことがあったが、殿下から同じ話を聞けるとは思ってもいなかったから。
けれど、殿下は私の反応を違ったように捉えたようだった。
「あぁ、そうだよな。その辺りのことはもう聞いているのか。この世界の私に」
眉を下げて微笑む殿下に、私は思わず言葉を詰まらせた。
「えっと……」
「すまない。先程の私の発言を気にしているのだろう。この世界の私について話すことで、私が不快になると。……確かに、私にはない時間をこの世界の私と君は過ごしている。私がどう生きてきて、幼い頃にどう感じていたかも、君が既に知っていて当たり前なのだろうな」
殿下は小さく「……嫉妬はするが」と呟きながら、こちらへと顔を向けた。
「言っただろう? 今日は君と本音で話したいと。……それでも、意外だった? 私がここまで曝け出すことに」
「え、えぇ。そうですね。正直驚いています。私にとって殿下は、婚約者として近い存在ながら、遠い存在でしたから。それに、やはり最期が最期だっただけに……」
「私のことが怖い?」
「そんなことは! ……いえ、違いますね。怖くないといえば嘘になると思います。今でも時々、この幸せが夢なのではないかと思う時があるのです。あの時、森で殺された私はそのまま消えてなくなるのでは、と。もちろん、私の犯した過ちを私の責任です。ですが、今も時々夢に見るのです。今も鮮明に……」
血を流した聖女を目にしたにも関わらず、自分のしたことを肯定しようと罪から目を背ける私に、殿下はただ冷たい視線を向けた。
その視線を思い出すだけで、今も震える程恐怖を感じる。
当時のことを忘れたことはない。愚かさも、恐怖も、罪悪感も。全て私の胸に深く刻まれている。
「そうか……。そうだよな。私は君のことを知らな過ぎた。あの事件が起きた時、私は君に怒りを感じた。国を混乱させる大事件を、私の婚約者である君が起こしたことに」
「……本当に申し訳ありません」
「いや、違うんだ。私は王宮がどれだけ恐ろしい場所か。貴族社会がどれだけ穢れた場所か十分に知っていたはずなのに、君を守ろうともしなかった。君の立場ならどれだけ陥れようとする輩がいるかを知っていながら、君を面倒だと感じて遠ざけていた。それが余計に周囲から君がどう思われるか……そんなことを理解できないはずはなかったのに」
「いえ、殿下は婚約者として十分私に配慮してくださいました。公の場では必ず私を一番に優先してくださいました。婚約者の義務として、果たせていなかったのは私の方です」
「義務、か。そうだな。全ては義務だった」
きっと互いのそういった意識がより壁を作っていたのかもしれない。殿下も同じように感じたのか、何かを考えるように沈黙した。
湖の緩やかな波の音が聞こえるぐらい静かなこの空間は、不思議なほど穏やかで、気まずさはなかった。
そんな静かな時間を打ち破ったのは、殿下だった。
「分岐は3年前だったか。……そうだ。私たちが学園に通っていた頃、週一度のお茶会があっただろう」
「えぇ。婚約者の義務として、殿下が張り付けた笑みを三十分間崩さずに綺麗にお茶を飲まれていたお茶会ですね。私のくだらない話に、適度に相槌を打ちながら、きっちり三十分後にシリルが呼びに来ていましたよね」
「シリルに呼び出し係に使うなと、毎回嫌味を言われていたよ」
「シリルの不機嫌そうな顔が目に浮かぶようです」
「そうだろう?」
クスクスと笑う私に、殿下は優しく目を細めた。
「今思い返すと、よくあんなにも興味なさそうな殿下に、自信満々に自慢話ができたものだと、恥ずかしいものです」
「私もだよ。価値がない話だと決めつけて、耳から耳へと通り抜けて、仕事の考え事などしていたからね」
「まぁ! いえ、でも実際大した話などひとつもなかったと思いますよ。今日の授業で何を習ったか、とか。貴族令嬢の流行りがどうだ、とか。そんなところかと思います」
口に出してみると不思議なもので、過去の自分を客観的に見つめることが出来る気がした。
「それでも、その閉ざされた世界が私の全てだったんです。私の知っている世界は、貴族としての在り方、マナー、女性たちの流行り、噂話。そして、誇るべき魔力と珍しい魔術を使える私。それが全てでした。国の情勢や民の暮らし、それに自分の魔力をいかに国に活かすか。そんなこと、思いつきもしなかった。考えようともしなかったのです」
「……貴族令嬢とは、そういうものなのだと私も思っていた。ラシェルをそういった枠組みの中に入れて、君の世界を広げることも、自分の視野の狭さを認めることもしなかった。そのくせ、そんな枠組みに入った君に嫌悪していた」
貴族令嬢には、貴族令嬢としての生き方も戦いも立場もある。けれど、私は立場や身分、生まれ持った魔力を活かすことを考えられなかった。
そして、カトリーナ様や周囲の甘い言葉に浮かされて、善悪も判らぬままに踊らされていた。
「深いことを考えず、私の為だと自分を持ち上げてくれて甘い言葉を囁いてくれる世界は、とても楽でした。でも、その信じた世界がどれだけ上っ面で、悪意まみれだったのかを気付けぬほど、私の目は曇りきっていたのです」
「君はきっと染まりやすい人なのだろうね。悪意に満ちた狭い世界では、その性格は不利だったのだろうな。だが、今は世界の広さを知り、世の中の善悪を身をもって知った。だからこそ、君自身の真っ直ぐな純粋さが揺らがない強さになっている」
殿下の蒼色の瞳が私の目を真っ直ぐに見つめた。さわさわと風に靡く私の髪を一房取ると、それを指で優しく撫でた。
「私にはないものだ。だからだろうか、途轍もなく眩しく見えるよ」
髪を撫でるのを止めると、殿下の手から私の髪がさらりと流れ落ちた。殿下はその様子をただ切なそうに、見つめて困ったように笑った。
いつの間にか傾き始めた夕日が湖をオレンジ色に染めている。まるで湖に吸い込まれていくように、涼みゆく夕日を私たちは無言で見つめた。
空の端が群青色に変わるころ、私と殿下は湖をあとにした。
殿下は名残惜しそうに、何度も何度も立ち止まっては後ろを振り返った。
まるで今日の光景を目に焼き付けるかのように周囲を見渡していた。
離れの門へと戻るころには、辺りはすっかり暗闇に包まれ、頭上に満天の星空が広がっていた。
「殿下、明日はどうしますか?」
「明日か……」
部屋の扉の前で殿下に声をかけると、殿下はポカンとした表情をした。
まるで、明日など考えもしなかったというように。
「どうかされましたか?」
「いや。明日、か。」
切なげに微笑みながら「本当に来ればいいのにな」と呟いた。
その小さな呟きは、私の耳には途切れ途切れにしか聞き取れず、聞き返す私に殿下は首を横に振った。
「いや。……良ければ明日、もう一度ここで話をしないか?」
「えぇ、もちろんです」
不思議なことに殿下は、自信なさそうに私の返答を待っていた。だが、私がすぐに頷いて了解の意を示すとほっとしたように笑みを浮かべた。
「では、また明日」
「あぁ。……あっ、ラシェル。おやすみ」
「はい。おやすみなさい」
挨拶をして満足げに微笑む殿下は、今度こそ私に背を向けて、自室の方へと歩いて行った。
何故かそんな殿下の背中を見ていると、胸騒ぎがする。
「殿下!」
気付けば、ドアに手を掛けた殿下に向けて、声を掛けていた。
「ん? 何だ?」
驚いたように目を丸くしながら、殿下はこちらに振り返った。私が呼び掛けたのだから当たり前かもしれないが、応じてくれたことに不思議とほっとする。
それでも目の前に殿下はいるのに、殿下が消えていなくなるような、そんな根拠のない予感が胸の中でモヤモヤと渦巻いた。
「……また、会えますよね?」
何故、私はそんなことを聞いているのだろう。でも、聞かなければもう二度と殿下に会えなくなりそうな予感がした。殿下はそんな私に、優しく微笑んだ。
「ありがとう。……おやすみ」
その言葉を残し、部屋へと入っていく殿下の後姿を見つめた。





