2‐51
私が待っているのはいつだってこの世界のルイ様だ、という目の前のルイ様の言葉に、私は咄嗟に首を横に振る。
「ちがっ……」
だが、焦りとは別に、私の言葉から出た否定の言葉はどこか自信なさげに呟かれた。
――いや、本当に違うと言えるだろうか。
殿下が気づくほどに、不快になるほどに、私は殿下とルイ様を明確に違う人物と捉えていた。そして、それが明確になればなるほど、ルイ様を待ち焦がれていた。
それが殿下にどう映るかなんて何も考えていなかった。
「私は……」
「自分の中にこんな感情があるなんて、考えたこともなかった。君が待っているのも、君が想う相手も私でない、もう一人の私。自分を見ているようで、いつだって君は私を通してもう一人の私を見ている」
「そんな……いえ。不快に感じさせてしまい申し訳ありません」
頭を下げようとする私の両肩を殿下は掴んだ。
「違う。……すまない。君に謝って欲しい訳ではないんだ。自分の苛立ちを人に当たるなんて、最低なことをした」
「殿下……」
「時間がないのは私の方だ。……君という人を知りたいのに、知るには時間が足りない。覚悟も足りない」
時間がない。覚悟が足りない。
殿下のその言葉を聞いて、初めて私は殿下が何を私に伝えたいのかが分かった。
殿下は、私と真正面から向き合おうとしてくれていたんだ。それに気づくことなく、私はルイ様が早く帰れるように。殿下が早く元の世界に戻れますように、と。そんなことしか考えていなかった。
殿下とルイ様は違う人だ。そう考えながら、殿下自身を深く知ろうとはしなかった。
「君が待つもう一人の私は、きっとどんな相手にも臆することなく、どんな手を使おうとも、君の元へと帰ってこようとするはずだ。この世界に来てからというもの、元々の体の持ち主の、君への執着心を無意識にでもずっと感じている。だから、私には何となくわかるんだ。だが、彼が帰ってくるということは、私は元の世界へと戻るのだろう。そこには……ラシェル。君はいないんだ」
そう。この世界のことが当たり前のように考えていたけど、元の世界にもそのまま殿下の生活は残っている。
私が悪女として断罪され、修道院へと向かう最中に殺されたその後の日々が。
殿下が元の世界に戻りルイ様がこちらの世界へと戻れば、私はきっとこの世界で変わらずに生きて、前世に想いを馳せる日も減っていくだろう。
でも殿下は違う。殿下の世界は、私が既にいない世界。私にとっての過去なんだ。
「つい最近まで、君がいないことを当たり前のように受け入れた私に、それを悲嘆する資格はないのかもしれない。それでも、今戻ったら……もう二度と君と話すことも叶わない。君の顔を見ることも、一緒にお茶をする時間も、君を知る術もないのか、と。そう思ったら、無性に苦しさがあるんだ」
殿下の真っ直ぐな言葉から、殿下の抱える後悔と苦悩がそのまま私に流れ込んでくるようで、胸が苦しくなる。
殿下は目の前の私を見つめながら、もっとさらに遠くの何かを見つめるようだった。ブルーサファイアによく似た澄んだ瞳は、いつも吸い込まれるように美しい。
その瞳を、今は苦痛に歪ませている。
「なぜ、私は君のことを大切にできなかったのだろうね。時間はたっぷりあったはずなのに」
なぜ大切にできなかったのだろう。なぜ大切なものに気づけなかったのだろう。それは、私が過去に戻ってから何度も感じたことだった。
でも、殿下と私にはその時間に違いがある。
私の時計の針は戻ったけれど、殿下の時計の針は進み続けたままなんだ。
「私に見えていたものは、今と未来だ。過去を振り返り、今後に生かすことを考えることはあるけど。過去に戻ってやり直したいなんて考えたこともなかった。だって、考えても無駄だろう?」
その言葉は合理的な考えを持つ殿下らしい考えだ。
「けれど、今ほど過去にもう一度戻りたいと願ったことはない。もしかすると、価値がないと決めつけたことにより、自分にとって何よりも大事なものを失っていたのかもしれないな」
大事なもの、という言葉と共に私を見つめた殿下の瞳に、心臓が大きな音を立てた。
自惚れでなければ、殿下の瞳、言葉、表情全てが、それを私のことだと言いたげだったから。