2‐49 もう一人のルイ視点
闇の精霊の地で自分に与えられた部屋で、ひとり窓から月夜を眺めながら、ベッドに腰掛ける。
――何故だろう。最近の私は、どこかおかしい。
闇の精霊の地で目を覚ましてからというもの、ずっと自分が自分でないようで変な気分だ。
というのも、先程まで一緒だった彼女のことばかり思い浮かべてしまう。
「ラシェル……」
彼女の名を呟くと、不思議と心臓をギュッと握りつぶされたような苦しさを感じる。だが、それが苦痛ではない。心の奥で甘さと呼ぶにはあまりにどろりとした変な想いが湧き出てくる。
――これは、私の感情なのだろうか。それとも、契りの指輪なんてものを婚約者に贈るような、ドロドロとした執着心を持ったこの体の持ち主が、何かを足掻こうとする気持ちなのだろうか。
多分どちらもあり得るだろう。
この世界の私の感情に引きずられるように、彼女に興味を持ち始めてしまった。そして、彼女の声、話し方、表情……そんな些細なこと全てに目が行く自分に気がついた。
その心境の変化は、自分の中の彼女のイメージが変化しただけだろうか。いや、それだけだとは到底考えられない。となると、きっともう一人の私が持つ彼女への好意が影響したのではないだろうか。そう考えると、ここ数日の急激な感情の変化に納得がいく。
もしかしたら、今日の昼間、彼女からこの3年間の話を聞いたのは間違いだったのかもしれない。
ぼうっと月を見つめながら、そんなことを考える。
なぜなら、彼女の3年間を聞いたことで、より彼女のことを知りたいと感じるようになってしまった。
ゴロンとベッドに横になりながら目を閉じる。すると、自然と思い浮かべるのは、ラシェルの蕾から花が咲き誇るような、明るく朗らかな笑み。
「あんな風に笑うのだな……」
いつだってラシェルを思い出す時、彼女は猫のような目を吊り上げて、激高していた。苛烈な物言いに、自信過剰な性格。そして何よりも嫌悪していたのは、平民を見下す発言。どれもが私をげんなりとさせた
婚約者の義務として定期的に行っていたお茶会は憂鬱だったし、彼女のお喋りに飽き飽きとしていた。
全ては義務、義務、義務。それ以上でもそれ以下でもない。
ラシェルがキャロル嬢と揉め事を起こした時でさえ、なんて面倒を起こしてくれたんだと怒りと苛立ちしか沸き上がらなかった。
彼女が死んだときでさえ、悲しみや喪失感などあまり感じなかった。それよりも、国の混乱を最小限に抑えなければいけない。そのことが真っ先に頭に浮かんだ。
――王妃の器としてあまりに足りない、と見下していたのは、私の方だ。
それがこの世界にきてからは、どうだ。
国を想い、民を想い、婚約者への確かな愛情を見せた。ふわりと優しい笑みを浮かべ、他者への気遣いを忘れない。
「……まるで別人じゃないか」
だが、彼女の口から語られたこの世界の私も、別人のような性格をしている。根本は変わらないだろうが、私だったら魔力を失ったラシェルと婚約を継続することは考えられない。愛を理由に陛下と衝突し、賭けを持ちかけることだってしない。
ましてや、国にとって重要な光の聖女であるキャロル嬢と料理人の仲を認めるなんてことも、絶対にしないだろう。
執着心、独占欲、束縛。そんな言葉は、私とは一切無縁なはずだ。
――それなのに、何故……この世界の自分のことを、羨ましいと感じてしまうのだろうか。
『お前も何か悩んでるのか?』
急に耳元で聞こえた声に、ベッドから飛び起きる。そこには闇の精霊王が立っていた。こちらを興味深そうに覗き込んだ彼は、顎に手を当てて観察するような視線を寄越した。
「精霊王様、急に現れるのはおやめください。……心臓に悪いです」
『あれ? ノックしただろう?』
「いえ、していません」
私の答えに精霊王は、『おかしいなぁ』と首を捻った。
「それで、こんな夜更けにどうされましたか」
『いや、さ。俺も最近珍しく考えることが多いから夜の散歩をしてたんだ。けどさ、一人って暇だろう。お前が起きているようだから、話相手という名誉を授けてやろうかと思ってさ』
人好きのする笑みを浮かべた精霊王は、こんな悪趣味なゲームを始めた張本人だとはとても思えない。
「……それで、話とは一体何でしょう」
とはいえ、精霊王相手に悪態なんてつけるはずもない。なんせ相手は神なのだから。
『俺さ、今まで感情なんてものを持ってなかったんだ。楽しい、面白い、ワクワクする。それが俺の全てだったんだ。精霊の毎日なんて代わり映えしないし、退屈だらけなんだが、それでも楽しいは楽しいって感じだったんだよな』
「はぁ」
『けどさ、最近そんな自分が空っぽなんだって思い始めたんだ。なんかモヤモヤするとか、なんか悲しい気がするとか。最近、そんな気持ちを知ってさ。そうしたら、毎日の見える景色が、少しずつ変化して来たんだよ』
キラキラと瞳を輝かせる闇の精霊王は揚々と語るが、いまいち何のことを言いたいのか分からない。
並行世界のことや闇の精霊について、デュトワ国とオルタ国についてなど、私が目覚めてから元の世界との違いについて、精霊王から教わった。彼の説明はどれも理論整然としていた。
もちろん神として崇めるべき対象であり、畏怖を感じるほどの存在ではある。だが、どこか親しみやすさのある闇の精霊王は、師のように私の抱く疑問点に逐一答え、状況把握に一役買ってくれた。
だというのに、自分のこととなると途端に幼い子供のような様子に戸惑う。
精霊王も私の困惑に気づいたのか、僅かに首を傾げながら考える素振りをした。
『例えばさ。ラシェルは花が好きだろう? だから、珍しい花を見せてやったら喜ぶかな、とか。そんなことを考えると、退屈じゃなくなる。俺にとって、ゲームと関係なしに退屈じゃないってのは、凄いことなんだ』
精霊王の口から出たラシェルの名に、ドキッと心臓が跳ねる。だが、精霊王は気がつく様子はなく、窓枠に手を置きながらこちらを振り返った。
『お前は早く元の世界に戻してくれと何度も言っていただろう? 今は退屈か。早く戻りたいか』
何故こんな質問を……。
私はこの世界に来てから、何度も何度も精霊王に尋ねた。元の世界に戻りたい。戻る為にはどうすれば良い、と。
いつだって精霊王の答えは、もう一人の私とゲームをしているから戻れるかどうかはそいつに掛かっている。と、そればかりだった。
うんざりとした気持ちで自然と出そうになるため息を堪える。
「戻りたいと言えば、戻してくれるのですか?」
どうせまた同じ答えなのだろう。そう想像しながら、返事をした。
だが、今日の精霊王はどこか雰囲気が違う。ニヤリと愉快そうな笑みを浮かべた。
『お前が望むのなら、その時はすぐ来るだろうな』
――その時は……すぐ? もうすぐ戻れるというのか?
ここでの私の正しい反応としては、歓喜に湧くべきなのだろう。待ち望んでいたことだったのだから。
だが、頭の冷静さとは反比例し、心臓は嫌な音を立て始めた。
『どうした? 戻りたいのだろう? 今日だって元の世界に戻る術を探していたのだろう』
「私は……」
戻りたい、と即答したはずだった。だが、私の口はその言葉を飲み込んでしまった。
握りしめた拳に力が入り、背中を嫌な汗が流れる。
『なにか、戻りたくない理由があるのか?』
精霊王は、私の心中を見透かす様な瞳でこちらを見た。紫の瞳はよく磨かれた水晶玉のように透き通っており、嘘は通じないと直感で分かった。
『例えば、そうだな。この世界にあって、元の世界にないもの。とか?』
「そんな……ことは……」
――本当に違うといえるだろうか。
この世界にあって、元の世界にないもの。すぐに思いつくものなんて、たったひとつしかない。
もうすぐ戻れると聞いて、まず最初に思い浮かべたのがラシェルの顔だった。
だが、私はそれを認める訳にはいかない。
『もっと知りたい。話したい。触れたい。でも元の世界に戻れば、それは絶対に叶わない。……なぜなら、相手はこの世にいないのだから』
ガツンと鈍器で殴られた気分だった。
これ以上踏み込めば、私は元の私でいられなくなる。そう直感で気づいてしまっていたからだ。
――さっきまで会話をし、笑い合い、手に触れた彼女は、ここにいる限り生きて存在している。それなのに、私の世界には、存在しないんだ。
その事実を改めて思い出すと、目の前が真っ暗になるようで、現実から目を背けてしまいたかった。