2‐48
殿下が目を覚ましてからどれほど経っただろうか。精霊の地での時間は、普段の慌ただしい日常とかけ離れていて、未だふわふわとした現実感がない気分だ。
それでも、自分を見つめ直し、模索し、心と向き合うのには、これ以上ない時間なのだろう。
ネル様には、何度もルイ様の意識を入れ替える術を聞き出そうとしても、相変わらずかわされてしまう。
何でもゲームのルール変更はできない、との一点張りだ。
最近は入れ替わったルイ様――殿下と協力して、元の世界に戻る術を探し始めている。
それに関しては、ネル様も特に止める様子もなく、時空の部屋の出入りも自由にして良いと許可してくれた。
「今日も収穫はなし、か」
「えぇ。高位精霊にも聞いてみていますが、やはり知らないとの返答でした」
「やはり、全ての鍵は時空の部屋なのかもしれないな。やはり、私が元いた世界という光を見つけ出すことが、一番手っ取り早いのかもしれないな」
時空の部屋を後にした私たちは、離れへと戻る為に神殿の庭へと出た。
石畳の道をゆっくりと歩きながら、自然と溜息が漏れる。
「そうかもしれません。ただ、その光を見つけ出すのは難しいですね。……以前までは、あの光だけ青く光っていたので、区別がつきました。ですが、何故かその光が見つけられなくなってしまったのです」
「あぁ、青い光など見当たらなかったな。ひときわ大きな光は区別がつくが、他は大小あれど全て黄金の光だった」
初めて時空の部屋へと入った日、そしてほんの僅かな時間だけルイ様に会うことが出来た日。その二度の機会に、私に寄り添うように現れた青い光。
あの光が、私の前世の世界――つまり、殿下のいた世界であることは分かっている。でも、いざその光を見つける為に、何度時空の部屋に足を運ぼうとも、再び現れることは叶わなかった。
――あの光は、意志を持っていたように感じた。つまり、現れなくなってしまったのも、何かしらの意志……なのかしら。
「ラシェル、まだ時間はあるかな?」
「えぇ。特に用事はありませんが……」
視線の先に私たちが滞在している離れが見える。
本殿のお城のような立派さに比べたら、離れは素朴な造りといえる。だが、ライムストーンで出来たベージュ色の外壁は、柔らかく温かみがあり、幼い頃から知る場所のような懐かしさと居心地の良さがある。
建物の周りにはハーブやコスモスも咲いており、風が柔らかく吹く度に花の香りを運んでくれる。
「お茶を飲んで少し休もうか。甘いものを食べれば、良いアイディアも思いつくかもしれない」
離れの石造りの小さな門を入ると、殿下は建物内には入らず、庭園の方へと体を向けた。
「そうですね。まだ日も高いですし、庭園でお茶をしましょうか」
私が同意すると、殿下は僅かに目を細めて微笑んだ。
建物の裏手へと回ると、ピンクや白といった淡い色がメインのバラが咲き誇った庭園がある。小さな噴水は、飛沫の一粒一粒が陽の光を浴びて輝いている。
庭園の中央にある、建物と同じライムストーンで作られた東屋には、柱に絡んだツタが屋根まで伸びている。元々は紺色の屋根を葉の緑に変えている様は、まるで絵本で読んだおとぎ話の世界のようだ。
自然の多いこの場所の心地よさに、席に着くだけでほっと息を吐け、朝から歩き続けた体を休めてくれる。
「疲れたかな?」
「いえ、大丈夫です。これでも、昔よりも体力がついたのですよ。それに、草花や湖、川など自然が多い場所は大好きなので、精霊の地に来てからは、毎日散歩することが日課ですから」
「なるほどね。確かに、記憶している君よりも、今の君は随分溌溂とした印象になったかもしれないな」
殿下と協力して元の世界へ戻る術を見つけるうちに、少しずつ殿下との会話が増えてきた。自然と二人でお茶をすることも多くなっている。
最初に感じていた、殿下からの不信感を露わにした射貫くような視線を、今では感じることはなくなった。
高位精霊のチビちゃんが用意してくれた紅茶を飲み、一息つきながら、目の前のクッキーへと手を伸ばす。
柔らかい日差しが庭園の花に降り注ぐのを時折眺めながら、殿下と他愛もない会話をする。数日前までであればぎこちなかった会話も、今はそんな様子もない。
「君が街歩きを? 本当に?」
王都の町について会話していた際、ルイ様の行きつけの店について話題が出た。そこは、以前私が行った店でもあった為、それを伝えると、殿下は身を乗り出しながら驚愕した様子だった。
「えぇ。最近はお忍びにも少しは慣れてきたのですよ」
私の言葉に、殿下は「うーん」と考え込むように唸った。
「想像つかないな。だって、あんなにも平民を毛嫌いしていただろう?」
殿下が取り繕ったりせず思ったままを口にするのは珍しいことだ。ましてや、親しくない相手には絶対にしない。
けれど、目覚めた時の混乱で既に素を出していたことがきっかけなのか、殿下はその後も私に対して素で接してくれている。
だからこそ、私も殿下にはしっかり自分の考えを自分の言葉で伝えようと心掛けていた。
「……愚かな私には、貴族社会が私の全てでした。魔力や家柄が私の物差しでした。自分の国にはどんな民が住んでいるのか。どんな生活をしているのか。そのことに関心を持ちませんでした。見た目だけは立派な椅子を与えられ、何の不自由もなく座っている。それが私の人生でした」
3年前に一度死んでから、私は前世の自分がいかに世間知らずだったのかを知った。
「見掛け倒しの椅子が倒れた時、私は自分で立つ術を知らなかったのです。椅子が倒れたのは人のせいだと決めつけて攻撃しました。装飾の豪華さだけに目を配り、ひび割れた椅子に座っていたことを気付きもせずに」
「貴族の令嬢というのは、そういうものなのだろう」
「ですが、国母となるには不十分だったのですよね。殿下は、何度も何度もそれを私に気付かせてくれようとしていました。ですが、私はそんな殿下の考えを分かろうとしませんでした。そして……いつしか、殿下は諦めたのでしょう。私が変わることはない、と」
殿下は、私の話の途中で驚いたように目を瞠ったが、それでも最後まで黙って私の言葉を聞いた。そして、考えるようにしばらく景色を眺めた後、ゆっくりと口を開いた。
「そうか。……私は君のことを何も知らなかったようだ。勝手に君の人柄を理解したような気になって、評価していたようだ」
「いえ、何一つ知らなかったのは、私も同じです。殿下を穏やかで優しい方だと、その一面だけしか見ていませんでした。殿下が何故いつも微笑みを浮かべているかも、何も理解しようとしておりませんでした」
視線が合わさると、殿下の真っ直ぐこちらを向く蒼色の瞳に吸い込まれてしまいそうだ。
「教えて貰えないだろうか。君が魔力を失ってからの3年間を」
「えぇ、もちろんです」
殿下は時折カップに口をつけながら、私の話に相槌を打った。元々聞き上手なこともあり、私は時間を忘れてこの3年間に起こった出来事を話し続けた。
目を覚ますと魔力がなくベッドに寝た切りだったこと。しばらく領地で過ごし、学園に通い始めたこと。そして、魔力を取り戻したこと。
時系列もめちゃくちゃで、まとまっていないにも関わらず、殿下は真剣な表情で私の話に耳を傾けた。
特に陛下との正面衝突や私に契りの指輪を贈ってくれた話になると、信じられないといった表情で唖然としていた。
「指輪を見てもいいだろうか」
殿下に求められるまま、いつも肩身離さず身に付けている指輪を薬指から外して、殿下の手の上へと乗せる。
殿下は、その契りの指輪を念入りに確認するように、まじまじと見た。
「間違いなく、私の魔力が込められた契りの指輪だな。この世界の私が、君に贈ったのか。今や廃れた王家の文化を。……怖い程の執着心だな」
信じられないとでもいうように引き気味に苦笑すると、殿下は大きくため息を吐いた。
「私にもこんな一面があるというのか? いや、君が私を変えた……のか」
「殿下……」
「この世界の私は、何を考えてこの指輪を作ったのだろうか。こんな独占欲の塊のような指輪を……」
自分自身に問いかけるように呟いた殿下は、私へと指輪を差し出した。
殿下の掌に乗せられた指輪を受け取る為、手を出す。すると、指輪を掴んだ瞬間、殿下は私の手をギュッと握った。
「……殿下、あの……」
声を掛けても、私の手を掴んだ殿下の力は緩まなかった。困惑する私の視線の先には、俯いたまま自嘲の笑みを浮かべる殿下がいた。
私がよく知るルイ様の手だというのに、別人の手だと思うほど、その手は冷えていた。
「君は、私の……私の婚約者だったはずなのに、な」
消え入るような声で呟きながら、顔を上げた殿下は、どこか傷ついたような儚い笑みを浮かべていた。
「殿下?」
「いや、何でもない。すまなかった」
名残惜しそうに私の手を離した殿下の切なげな瞳に、私は直視することができなくて、目を逸らしてしまった。