2‐46
殿下が目を覚ましてから、数日が経った。
あれ以来、部屋に籠りがちだった殿下とは、顔を合わす機会はほとんどなかった。あったとしても、私の顔を見るや殿下は否や軽い挨拶をして、すぐに踵を返してしまっていた。
殿下が部屋で何をしているのかは私には分からない。だが、黒馬の精霊に様子を聞いたところ、ネル様が何度も部屋に入っては長時間話し込んでいるらしい。
『王様とデュトワの王太子が何を話しているのかは分からない。だが、王は新しい玩具を楽しんでいるそうだ』
「最近ネル様の姿を見ていないと思っていたのですが、殿下のところにいたのですね」
『其方は王にとって特別な玩具だ。だからこそ、其方がここに来てから、王も僅かに心を知り良い方へと成長されるかと思ったが……』
「また興味がなくなれば、一瞬で捨てるようなネル様になっている。ということですか?」
『……その可能性も否定できない。王太子への関心がいつまで持つのか。慈悲があるのか。それは、王にしか分からない』
黒馬はすまなそうに頭を下げた。
「私のことは気にしないでください。でも……ルイ様がこの世界にちゃんと戻って来られるのか。それだけが気がかりで……」
最近、思うように眠れない。
必ず迎えに来ると誓ってくれたルイ様は、きっと今もこの世界に戻る為に頭を動かし、足を動かし、行動を起こしているだろう。
なのに、私はどうだ。
ルイ様の体に、前世のルイ様……殿下の意識が宿ってしまった。ルイ様だけど、ルイ様でない。愛している人なのに、私が待っている人ではない。
何をすればいい。どうすればいい。会いたいのに、会えない。
向き合いたいのに、どうすることが正解なのか分からない。
『怖いのだな。この世界の王太子を求むということは、別世界の王太子を拒むということ。同一人物の片割れを拒み、片割れを愛す。それを認めろというのだろう。……何故、王はこんなにも残酷なことをするのだろうか』
そうだ……私はそれが怖いんだ。
愛している人なのに、心がこの人ではないと拒否してしまう。それを認めることなんてできないのに、どうしても戻ってきて欲しいのは、たった一人なんだ。
「……同じルイ様なのに、私はなぜ彼じゃないと駄目なのでしょうね」
今も目を閉じれば、ルイ様の笑顔が焼き付いている。ルイ様の私の名を呼ぶ声が。温もりが。全部覚えているのに……。
『行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる』
この言葉は有名な名言であるため、もちろん聞いたことがある。だけど、黒馬の穏やかで包み込むような低音で聞くと、より心に響いてくる気がした。
『3年の月日は、同じ人物でも習慣も人格も運命も違う。其方が作った運命だろう。信じなくてどうする』
黒馬の凪いだ瞳は、こちらの心内が全て見透かされたような不思議な感覚に陥る。
『其方の運命は、どこにあるのか。よく考えるんだ』
♢
黒馬の精霊の言葉が、何度も何度も頭の中で繰り返される。その度に、ため息が口から漏れる。
「私の運命、か……」
芝生の上に座り、青空を見上げる。雲の流れを目で追っていると、私の手をペロッと舐めたクロが膝の上に登ってきた。
クロの頭を撫でていると、クロは満足そうに目を閉じた。
『クロ、運命を知っている』
「え? 知っているの?」
眠そうに欠伸をしていたクロは、私の驚いた声にエッヘンと胸を張った。
『テオドールがかなり前に教えてくれた。サミュエルが運命の出会いしたって笑ってた。アズキとダイズが運命だって!』
――アズキとダイズ?
誰のことだったかと記憶から探る。だがすぐに、サミュエルが作る美味しい料理を思い出し、「あぁ、小豆と大豆」と声が漏れる。
「……え? でも、小豆と大豆は、豆の種類よ。それがサミュエルの運命なの? 本当にテオドール様が言っていたの?」
『言ってた! クロ、テオドールの言葉は忘れない。ルイをからかって楽しかったって笑ってた!』
クロは、自信満々に明るい声で答える。その勢いに押されるまま、しばしテオドール様の発言に関して、考えを巡らせる。
「うーん、でもそうね。あの豆がアンナさんの記憶を戻したのだもの。サミュエルの運命といっても過言ではないのかも。……テオドール様はそこまでを見越して運命とクロに言ったのかしら?」
『多分そう! テオドールは人間で一番凄い奴だから!』
「クロは本当にテオドール様が大好きね」
『テオドールもここに来ればよかったのに』
拗ねたように顔を背けるクロの頭を撫でながら、クスッと笑みを溢す。
――最近物思いに耽ることが多かったから、クロと一緒にいると癒されるわ。
先延ばしにはできないけど、芝生の上に座り風を感じながら心を和ます時間も必要だったのかもしれない。
久しぶりに体の力が向けた気がする。
だが、そんな柔らかい時間はすぐに終わりを迎える。というのも、後ろから草を掻き分ける音が聞こえたからだ。
「テオドールがどうしたって?」
その声にビクリと肩を揺らす。ゆっくりと振り返ると、そこには不機嫌そうな顔をした殿下の姿があった。