2-45
テーブルを挟んでソファーに座る殿下の表情は、変わらず固く探るような冷たい視線は変わらない。
その視線に、何度も心が折れそうになる。
だが、この状況を作ったのもこの関係性を生み出したのも私自身。だからこそ、混乱に逃げ出したくなる足に力を入れ、殿下に私が知りうる限りで状況を伝えた。
「つまり、この世界は並行世界で、私はこの世界の自分と入れ替わったと?」
「は、はい……」
私の言葉に、殿下は大きなため息を吐きながら、眉間を指で押さえてしばらく黙り込んだ。
私のお世話をしてくれている高位精霊の少女が淹れてくれた紅茶は、口をつけることなくとっくに冷めきってしまった。
それでも、今一番混乱しているのは確実に目の前にいる殿下だ。何も知らず、ある日目覚めたら見知らぬ場所にいたのだから。
――ましてや、殿下の最も信頼しているシリルやテオドール様がいない状況。ここにいる知り合いは、唯一もう目にも入れたくないと思っていた元婚約者の私なのだから……。
一通りの説明をしたものの、どうすればいいのか分からなくなり、無言でテーブルの上のカップを見続けた。
膝の上で組んだ手をギュッと握りしめながら、一時退室するべきかと考え、顔を上げた。
すると、こちらを睨むように真っ直ぐ見つめた殿下と視線が合い、ビクッと肩が揺れた。
「……それは何の真似なんだ」
「真似、とは一体何のことでしょうか」
「元々我が強く、人を気遣うタイプには思えなかったが。今の君は、私の全く知らないラシェル・マルセルのようだな」
腕を組んだ殿下は、疑念を晴らそうとしているのかより一層、眉間に皺が寄った。
――殿下が疑うのも無理はない。殿下にとって、私は死人だ。亡霊が急に目の前に現れて、疑うなという方が無理だと思う。
むしろ、騒がず怒りに身を任さず、幽霊だろうと話を一度聞こうとしてくれる殿下の姿勢は尊敬しかなかった。
そんなところが、やはりルイ様なのだと実感する。
「殿下に謝りたいと何度も思っておりました。……私は以前、何も見えていませんでした。殿下が何故私を婚約者に据えたのかも、何を求めていたのかも」
「……今は分かるとでも?」
殿下は足を組み直しながら、眉を僅かに動かした。
きっと、分かる筈がない。そう言いたいのを堪えたようにも見える。
もちろん以前の私であれば、知らなかった。分かろうともしていなかった。それでも、ルイ様が……ルイ様との時間が、私の考えの浅さを変えた。
だからこそ、今は自信をもって頷くことができる。
「はい。殿下は協力者を求めていたのですよね。この国に光が当たらない場所を作らない為に」
私の言葉に、殿下は目を瞠った。殿下にしては珍しく、驚きを露わにした。
「本当に君は、私の知っているラシェルなのか? にわかには信じられない」
先程まで僅かに見せていた疑念と嫌悪感を一瞬忘れたように、殿下は瞬きをした。
「何かの魔術で、君に似せた人物が私の目の前にいる。……そう考えた方がまだ納得できそうだが?」
魔術か。確かにいきなり違う世界に連れて来られた殿下が、現実的に考えるとなると、そう考えるのも仕方ない。
3年前に時を遡ってから、前世とは生き方も違えば考え方も変化した。愚かな自分だった過去から、何も学べていなければ、今ここにいなかったのだから。
「間違いなく、私は殿下の知るラシェル・マルセルです。何不自由ない家に生まれ、魔力の高さから傲慢に振舞い、世間知らずに生きてきた。挙句に自分の立場を脅かされることに恐れ、周囲の傀儡と化し聖女を害した。……それを選択し生きたのは私で、決して消えようのない過去なのです」
「……まるで別人と会話している様だ」
首を何度も振りながら、殿下は考え込むように口元に親指を当てた。
「……申し訳ないが、私は今この瞬間をリアルな夢だとしか考えられない。早く目覚めたいとしか考えられないんだ」
「えぇ、そうだと思います」
「亡くなった元婚約者が、実は並行世界で生きていて、過去の行いを悔い改めて真っ当に生きています。……そんな夢物語を信じるほど、夢見がちな人間ではない。君は一体何者なんだ」
真っ直ぐとこちらを見つめる殿下の瞳に、思わず口籠る。
何といえば伝わるだろうか。何といえば信じて貰えるだろうか。
ルイ様であってルイ様でない。それでも私の知っている殿下。彼に真摯に向き合いたいのに、ルイ様と対峙するだけで不安とも恐怖とも分からない言いようのないもどかしさを感じてしまう。
――ルイ様に帰って来て欲しい。でも目の前のルイ様もルイ様に他ならない。どこまで踏み込んでいいのか分からない。……何故だろう。殿下を前にすると、親しくなっては危険だと。今すぐ逃げ出したくなってしまう。
こんな感情をルイ様に向けるなんて、駄目なことなのに。
曇りのない真っ直ぐな視線に耐え切れなくなり、視線を下げて身を縮こませる。
その時、ポンっと優しい手の温かさを頭の上に感じ、弾かれたように顔を上げる。
『随分と辛辣だなぁ。婚約者の情はないのかよ』
「誰だ!」
何の物音もなく、私の真後ろに立っていたのは、大きなため息で唇を尖らせたネル様だった。
ネル様の登場に、殿下はすかさず腰を上げてこちらへと走りよると、私とネル様の間に割り込むように腕を伸ばした。
『おっと、怖い。俺は普通だったら、お前たち人間とは会話することさえ出来ない相手なんだぞ。もっと敬え』
「……ネル様、殿下はまだ混乱しているようですから。それに、ネル様のことも存じ上げないのは仕方がないことなのです」
『知ってる。からかってるだけだって』
ネル様は殿下の反応を面白そうに笑いながら、殿下の顔を覗き込む。そして、何かに気がついたように、人差し指をピンっと伸ばした。
「あっ、そうか! この王子様は闇の精霊を見たことがないだろう? で、最初に見た闇の精霊が精霊王の俺って凄くないか!』
ネル様は愉快そうにケラケラと笑いながら、『しかも、闇の精霊の地で! ここまでくると歴史上初めてじゃないか?』と、殿下の肩に腕を回しながら瞳を輝かした。
当の本人は、ネル様の発言にサッと蒼褪めたように顔色を変えた。
「……闇の……精霊……? 精霊王……?」
無意識に唇だけを動かしたように呟いた殿下の声は、かつてないほど弱々しい。きっと、私が殿下の立場であれば腰を抜かしていただろう。
それでも殿下は、真っ直ぐに立ち竦みながら、言葉を失うにとどまっていた。