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車椅子が我が家にやって来てから、私の行動範囲は大分広がっていた。
今日も、庭の花々に囲まれたガラス張りのコンサバトリーの中で本を読んでいた。
天候が良い日はガラス越しに暖かな日差しが入るこの場所の小さなティーテーブル、そこが私の定位置となった。
サラが置いておいてくれた紅茶の入ったカップを持ち上げ、一口飲む。
殿下が贈ってくれたこのローズティーは茶葉の中にバラの花弁が入っている。
花の華やかな香りと甘い味わいは心を穏やかにし、癒しの時間を与えてくれる。
「それにしても、本当に近頃は来ないのね」
ふと、この茶葉の送り主のことを考える。
殿下は暫く来られないという言葉通りに、ここ数週間は本当に姿を現すことがない。
ただ、その代わりに手紙とこういった茶葉や私の好みそうな本を贈ってくれる。
ちなみに、本人が現れないので婚約解消の話が進んでいるのかと少し疑問に感じたりもしていた。
父も今回のことで婚約は解消されるだろうと言っていた。
そのため、父に聞くと「陛下との話が難航していてね。
悪いようには絶対させないからこの父に任せてくれ」と、こちらもあまりスッキリとしない会話となった。
こんな体では王太子妃なんて無理なのに。
みんな何を考えているのだろう。
殿下のことを知れば知るほど、距離が近づくほどどうしたらいいのか分からなくなる。
今までは殿下のことを王太子、その整った顔つき、王族の特別な魔力や頭の良さ、そんなことしか見ていなかった。
でも、最近は違う。
はにかんだような顔、不安そうな顔、顔をくしゃくしゃにした笑顔。
どれもが初めて見る顔だった。
この間のあの何かを決意した顔
あれは何なのだろうか。
深く考えようとして、ハッとする。
ダメだ、ダメ、こんなことを考えては。
私は首を何度か振ると、ひとつ深呼吸をする。
どうせ聖女が現れたら、殿下はそちらに行ってしまう。
この国を導く存在である殿下には、あの慈悲深い聖女がその隣にいる。それが一番あるべき姿なんだ。
こんな魔力のなくなった私なんかではなく。
だったら、何も考えたくない。新しい殿下なんて知りたくない。
私は、新たに生まれそうになる感情に無理やり蓋をして閉じ込める。
「お嬢様」
思考の闇に沈み込もうとする私に、サラが優しく声をかけてくれる。
「そろそろ戻りましょう。
もう少ししたらブリュエット先生が来られるかと」
「そうね。サラ、部屋まで連れていってちょうだい」
「はい」
穏やかに微笑むサラは私の後ろに回り込み、車椅子をゆっくりと動かした。
♢
「マルセル嬢、この間の課題はとても良く考えられていましたね。
この国の気候と農作物についてよく勉強されてます」
「ブリュエット先生、ありがとうございます。
先生からお貸しいただいた本がとても分かりやすくて助かりました」
この数週間で変わったことはもう一つある。
殿下が紹介してくれた家庭教師、ブリュエット先生が週に3日来てくれることとなった。
赤い髪の毛を後れ毛ひとつないシニヨンにし、細い銀縁のメガネをかけた女性だ。
元々は国立魔術研究所の所長補佐をしていた優秀な方である。
厳しい所もあるが、いつも分かりにくい部分をしっかりと理解できるまで教えてくれる。また、出される課題はなかなか面白くとても学ぶことが多い。
「では、今日はこの国と精霊の関係についてですね。
マルセル嬢、精霊について分かっていることを説明してください」
ブリュエット先生が魔術史の教科書を開き、私の隣の椅子に腰掛ける。
「はい。精霊は通常、属性毎に集団となって生活していることが分かっています。
また、精霊召喚の儀でしか通常精霊を呼び出すことは出来ません」
「そうですね。では、精霊召喚の儀で行われることは?」
「自分と相性の良い精霊に呼応し精霊が現れると、精霊に名を与えてその力を貸してもらう事ができます」
この辺りは前回の経験上よく知っている。
以前の私はこの精霊召喚の儀で水の中位精霊を呼び出すことが出来た。
水色の犬のような風貌の大きくて可愛らしい子だ。
高位精霊でなければ言葉を話すことはないらしいから、普通の犬と同じように「ワンワン」としか喋らなかったが。
それに、精霊は気まぐれだ。
いつもは側におらず精霊の住処にいる。時々思い出したかのように現れるのだ。
だが、貸し与える力は精霊と契約者の魔力で繋がっている為、離れていようが関係ない。
魔力のない私には、辛いことだが……あの子にはもう会うことは出来ないだろう。
「その通りです。では、例外は?」
「例外は、精霊王です。精霊王は名を持っており、通常人の前に現れることはありません。
ただ、光の精霊王は時折人に慈悲を与え惹かれる魂を持つものに加護を与えます」
「えぇそう、それが聖女です。
光の精霊王が人の前に現れた最後が300年前なので、その300年前の聖女が一番新しいとされていますね。
また、聖女というのは象徴とされています。
なぜなら、人間とは欲深いもの。力を広く広め過ぎると、その力に依存してしまう。
その為、聖女の力は王族以外には秘匿されます」
ブリュエット先生の言葉に目を見開いて驚いてしまう。
今の話が本当であれば聖女とは象徴ではない、ということ?
学園では、加護とは光の精霊王が好んだ人間へと与える守りの力、とされていた。他者に対しては何ら力を発揮しないと。
本人に力は無くとも、《精霊王が加護を与えた聖女》という、その存在自体に意味がある。
精霊がこの国を見守ってくれているという象徴であるからだ。
その為、人々は聖女を敬い信仰する。
だが、そうではない?
精霊が力を貸す関係は契約
だが、精霊王が力を貸すのは加護
確かに呼び名が違う。
それが意図されたものであるなら。
「先生、聖女の力とは何なのでしょう」
「それは私にも分かりません。聖女と王族以外には誰も知り得ないのです」
「その話は私が聞いても大丈夫だったのでしょうか」
「えぇ、貴方は悪用しないでしょう。それにどんな力か分からなければ使いようもない」
その言葉に唖然とした様子の私に、先生は続けて精霊の住処についての授業を続けた。
だが、私は先ほどの聖女の話がとても引っかかり、授業を終えた後もずっとブリュエット先生の話を思い出していた。
余りにも考えすぎていたせいか、その夜私は高熱で寝込むこととなった。