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『お前のやり直しを思い付いたのは俺だ。……ただ面白そうだからってだけだ。お前が魔力を失ったまま死のうが、俺にとってはどうでも良いことだったんだ』
「……知っています。それでも、私にとっては奇跡ですから」
『だけど、今日のことは……今日は、本当に別にお前を困らせようとか、遊ぼうとか。そう思ったわけじゃない』
ネル様は、何度も何度も言葉を選ぶように、唸りながら話を続けた。一方的に何かを告げるでもなく、初めて私に理解を求めるように。
私はそんなネル様の様子を驚きと共に、一生懸命に伝えてくれようとする言葉を待った。
『……俺はただ……お前が笑えばいいと思った』
バツが悪そうに視線を逸らして、ポツリと呟かれた言葉は、とても意外なものだった。
「ネル様は……今日ずっと、私を喜ばせてくれようとしていたのですか?」
『あ、当たり前だろう』
「時空の部屋に連れてくださったことも、ルイ様に会える時間を作ってくださったのも。全ては、本当に私を笑わせるために……」
『……何だよ。何度もそうだと言っているだろう』
私が呟いた言葉に、ネル様は恥ずかしそうに僅かに頬を赤らめた。そして、すねたようにフンッと顔を逸らせた。
『お前は俺の力を与えてやったんだから……俺の加護を。お前は、俺の加護を受けて、壊れなかった唯一なんだ』
黒馬が言っていた『王は幼い』という言葉、それをふと思い出した。
今までネル様は、自分の感情を整理すること、言葉にすることの経験が少なかったのかもしれない。好奇心旺盛で、人間への興味がある。でも、自分の行動が相手にどう映るか、相手の行動で自分がどう感じるか。そういった意識をかつてしたことがなかったのだと思う。
いや、どちらかというと、精霊王としては、必要がなかったのだろう。
それでも、ネル様なりに私に寄り添ってくれようとしてくれている。
ルイ様の命の危機に駆けつけてくれ、チャンスをくれたことも。時空の部屋に連れて行ってくれたのも。全ては精霊王の気まぐれだと思っていた。そして、そのこと自体は確かに気まぐれという一面も確かにある。
でも、それ以上に彼が私をほんの僅かであろうと、想ってくれていた理由に他ならない
『いいか、よく聞け。確かに俺たち精霊は気ままに生きるし、誰かに合わせることなんて大っ嫌いだ。だが、お前たち人間よりずっと、愛情深いんだ』
「愛情深い……」
『あぁ。俺が見てきたお前たち人間は、良い顔をして裏切る。嘘をつく。親だろうと、恋人だろうと、親友だろうと。傷つけておいて、勝手に罪悪感を抱えて後悔ばっかりする。ちゃんと大事にしなかったくせに』
「……はい」
『精霊は、本能のままに生きる。それが人間には理解できないかもしれない。人の感情も分からない。命の重さとやらも、よく分からない。だが、お前たちを裏切ることはない。騙しもしない。偽りもしない。精霊王以外の精霊が人間と行う契約は、一生ものだ。一度契約した相手から離れることはない。……人間か精霊、どちらかの死、以外には』
その言葉にハッとする。
クロ、そしてかつて契約していた水の中位精霊――彼らは、私が望むときにいつも力を預けてくれた。精霊はいつだって、契約者に寄り添ってくれる。力を分け与えてくれる。たとえその力で悪事を働こうと、契約者から離れることはない。
ここにいると、今までよりもっと精霊を近くに感じる。そして、同時に今まで知らなかった精霊の温かさを感じる。
「精霊は、あるがままに生きる……ということですね」
『あぁ、自然と同じようにな』
偽ることもなく、裏切ることもなく。自分が思うままに生きる、か。
「私もそう生きられたらいいのに。本当に、心からそう思います」
『そう生きればいい』
ネル様はあっさりとした口調で私に言った。
いつだって誠実に生きたい。その想いと同時に、私は王太子の婚約者という立場にある。ルイ様と共に国を支えるにあたり、きっと誠実さだけではうまくいかないことなど、沢山あるだろう。
その時、私は自分の正義のみを優先するか。それとも、国や民を優先するか。
そう考えた時、ルイ様ならばきっと、信念を持って、時に国の為に自分が傷つこうとも、厳しい判断をするだろう。
「理想はそうありたいです。ですが、嘘も全てが悪という訳ではないのです。時に優しい嘘もあります。叶えられない約束をすることもあります」
『叶えられないと知っていながら約束だと? 無意味だな』
「……大切なものを守るために、時に悪を罰せずに目を瞑ることもあります」
『は? ……意味が分からない』
ネル様は心底不思議そうに首を傾げた。
「私にもまだまだ何が正しく何が悪なのか。判断に迷うことばかりです。日々、失敗してばかりです」
『精霊の地に入ったお前ならわかるだろう。ここの居心地良さに。それでも、お前は人間の世界の方が良いと思うか?』
「人の世界は、確かに綺麗なものだけでなく、時に汚れたものも多いです。正義だと信じていたものが、立場が変われば悪であることも多々あります」
『だから、お前たちはくだらないことでいざこざばかり起こして、大切な自然を壊したりするんだ。そのせいで、俺たち闇の精霊は住処を移さねばならなくなった』
「えぇ、本当にその通りです」
デュトワ国でも、先の戦争で多くの血を流した。快適さを求めて自然を壊した。人間のもろく愚かなところは、私含め沢山あるのだろう。
それでも、私は……。
「ですが、そんな世界を。私の大切な人たちが生きる世界を、私は愛しています」
私の返答に、ネル様は一瞬呆気に取られたように目をパチパチと何度も瞬きした。だが、その直後に、ふっと顔を背けると肩を揺らし始め、笑い声を漏らした。
『……ははっ、これだから知りたくなるんだよな。やっぱり、人間ってやつは面白いな』
キラキラした瞳をこちらに向けながら、楽しそうに笑うネル様を見ていると、こちらまで自然と微笑んでしまう。
そして、初めてこんなにも長くネル様と互いについて話したことで、ひとつ気がついたことがある。ネル様は私と同じなのだということを。
知らないものを知りたい。その感情を私は知っている。
時を遡ってから、私は無知を恥じた。同時に、知らない世界が眩しく思えた。
『俺は、お前が俺を楽しませてくれる限り、お前に手を貸してやるよ』
そういって私に手を差し出したネル様の手を、私は握り返した。
『だが、今日はもう遅いから、ゆっくり休むんだぞ』
「あっ、ですが」
『お前の王子様は大丈夫だ。俺が今日も魔力を流しておいてやるからな』
「……ありがとうございます。ネル様」
一瞬、扉へと視線を向ける。美しい蔦の紋様が入った木の扉は、ここに来た時と変わりなく固く閉ざされている。
だが、確かに今日はもう遅い。ネル様の言う通りに休むべきなのかもしれない。
そう思い、私は後ろ髪惹かれながら、ネル様に一礼したあと静かに踵を返す。そして、与えられた自室へと戻った。
だから、後ろから小さく呟くネル様の声は聞こえなかった。
『大切にしたい。笑顔をみたい。でも、めちゃくちゃにして遊びたい。……これは、何故なのだろう』
その言葉は、誰に向けたものなのか。
♦
私との約束通りルイ様に魔力を流すべく、ネル様が部屋に入った時、ネル様は不穏な笑みを浮かべて、紫の瞳が怪しく細めた。
『あぁ、でも楽しみだな。王子様が目覚めた時、ラシェルがどんな反応をするのか』
魔力を流し終えたネル様は、愉快そうに笑いながら姿を消した。
そこに残ったのは、精霊の地に来た時と同じように、ベッドに眠るルイ様ひとりきり。
だが、その誰もいない時に、変化は起きた。意識も未だ戻らず、固く目を閉じたままのルイ様の右手人差し指が、ピクリと動いたのだ。
その時、私はベッドに座りながら自室の窓から空を眺めた。
先程までの満天の星空が嘘のように、雲に覆われて月が隠れる。その様子をぼんやりと眺めていた私は、再び時計の針がゆっくりと動き出したことを、知る由もなかった。