2‐30
心を落ち着けるべく、私は神殿付近を目的もなく、ただふらふらと足が進むままに歩く。
ふと足を止めると、そこは丘の上だった。湖を一望できるこの場所は、いつもは青く澄んだ湖が陽の光を浴びてキラキラと輝いている。だが、今は夜の闇と同じ。暗く静かで、風が草花を揺らす音しか聴こえない。
「随分遠くまで歩いて来てしまったのね」
ここまでの道のりを辿るように振り返ると、神殿の灯りが遠くに見えた。
「はぁ……」
私のため息は、風に乗り静かに消えて行く。
――ここにいると、何が現実だったのかも分からなくなる。先程まで目の前にいたルイ様のことも。それに何より、ルイ様と話したことも。
もっというと、ここに来てからの日々、全てがまるで夢の出来事のよう。
沈み込む心を鼓舞するように顔を上げると、そこには綺麗な満月が浮かんでいる。
満天の星空は、まるで時空の部屋のようで、あの部屋の雰囲気を思わせる。それでも、月が浮かぶだけで、全くの別物のように感じる。
「今日が綺麗な月夜で良かったわ」
私は、時間を忘れて悠然と浮かぶ美しい月を見つめ続けた。
月も湖も大地も、いつだって豊かで美しい姿は、息苦しさを忘れる。私は何度も大きく深呼吸をする。その度に、夜の少し冷えた空気を体いっぱいに取り込めて、頭がすっきりする気がした。
精霊の地は、いつでも穏やかで過ごしやすい。それでも、今が夜だからか肌寒く感じる。羽織るものを何も持たずに部屋を出たので、僅かに寒気を感じた。
――そろそろ戻ろうかしら。
冷えてきた体を温めるように、腕を摩りながら、私はゆっくりと元来た道を戻った。そして、ようやく神殿の離れに辿り着き、自室が見えてきた。
だが、私は部屋に入ろうと進めた足を止めた。今日が終わる前に、ルイ様の姿を一目見てから戻ろうと踵を返したのだ。
だが、部屋の前でドアノブに手を掛けた瞬間、ピタリと手が止まる。いつものように、ノックをして、いつものように声を掛けて入室しようとしたのに。
先程時空の部屋で聞いた話を思い出して、ふと怖くなった。
――もし、今ルイ様の意識が戻ったとして、そのルイ様はどっちのルイ様なのだろうか。
今、ルイ様は私の元いた世界にいる。ということは、こちらの世界にいるルイ様はきっと……。そう思うと、ドアノブにかけた自分の手が震えてしまう。
『開けないのか?』
「ひっ……」
気配もなく、急に耳元から聞こえた声に、悲鳴が漏れる。
『あぁ、悪かった。驚かせたか?』
ドアから手を離し、振り返る。そこにいたのは、気まずそうに頭を掻いて視線を下げるネル様の姿があった。
「ネル様……急にどうされたのですか」
『お前が部屋にも戻らず、ずっとふらふらしているからな。遠くまで一人で歩いて行って、ようやく帰ってきたと思いきや、この部屋の前にずっと立ちっぱなしで、急に動かなくなるし』
ネル様は眉間に皺を寄せて、腰に両手を当てながら『まったく、遅いんだよ』と唇を突き出して、苛立ちを露わにした。
「もしかして、私を心配してくれたのですか?」
『俺が心配? お前の?』
ネル様は私の言葉に、きょとんと目を丸くした。そして、自分自身に確認するように『心配? 心配……』と呟きながら、首を傾げている。
『俺は今、お前の心配をしたのか?』
「あっ、いえ。そう感じたので。違ったのなら、申し訳ありません」
『……いや。俺は心配っていうのをしたことがないから、よくわからない』
「心配をしたことがない?」
『あぁ、ないな。もちろん、ちゃんと言葉は知っているぞ。物事の先行きを気にして、心を悩ますこと。気にかけてめんどうをみること。それが心配という意味だろう?』
「え、えぇ」
ネル様は、まるで辞書の意味を読み上げるように淡々と口にした。思わず頷くと、ネル様は満足げににっこりと笑った。
『ってかさ、なんで俺がお前をわざわざ心配するだなんて思ったんだよ』
「あの、私の様子をずっと見守ってくださったのかと。先程、帰ってくるのが遅いと仰っていたので。時空の部屋を出てからの私が、ちゃんと部屋まで戻って来るのを待ってくださっていたように思いまして。……違いましたか?」
昼間にネル様と意見の相違があった。それでも、その後ネル様は何事もなかったかのように振舞い、私を時空の部屋に導いてくださった。そのおかげで、ルイ様に会えた。そして、ここに来てからの現状を、ようやく理解することができたのだ。
ネル様の口ぶりから、私の行動を何処かから見ていた様に思う。だが、当の本人は無意識だったのかもしれない。もしくは、それも面白さの一部だったのかも。
「それとも、何か興味があることでもありましたか?」
ネル様の行動は、ネル様が面白いと感じるか。退屈しのぎになるか。興味をそそられるか。そのいずれかだと思っていた。
それでも、私を見つめるネル様の表情から、気遣いの色が見えた気がした。
『興味? 興味で観察……のはず……だよな?』
私の言葉は、ネル様をとても困惑させたようで、珍しく歯切れの悪い物言いをしている。おろおろと視線を彷徨わせる姿は、未だかつて見たことがない。
『お前の行動には興味がある。こんなにも無駄ばかりで、何故足掻こうとするのか』
「えぇ、そう感じられるのも無理はないと思います」
ネル様は以前から人間に興味を持っていた。なぜ無駄なことを頑張るのかと。確かに、精霊王から見た私は、きっと無駄な努力や遠回りを沢山しているようにみえるのだろう。
それは否定できない。もっと合理的に物事を進めることができれば、きっと楽なのだろうことも理解している。
それでも、私は何度転ぼうとも、自分の足で起き上がりたい。それが他人から見れば、滑稽に見えようとも。
「ネル様のお陰でもあります。私は、自分がいかに幸せなのか知っています。チャンスを与えられたことも、頑張れる場所があることも。そして、大切な人たちがいることも」
『俺のお陰、か』
「はい。だから、この人生を私は自分で考え、自分の足でしっかりと立ちたいのです」
――以前までのように、周りに与えられるままそれを享受することなく。他人に言われるまま、正しいことの善悪を理解せずに、人を傷つける人間になど二度となりたくない。
「それに、私は少しずつ今の自分のことを好きになれました」
時を遡ってからずっと、自分の醜さを知り、ずっと自分が嫌いだった。
それでも、私の側で見守ってくれる人がいる。守りたいものがある。だからこそ、私は変わることができた。
「失敗を見つめる時間をくださったこと、大切なものに気づくチャンスをくださったこと。何より、変わる機会をくださったこと……本当にありがとうございます」