2‐26
――ゴミ箱のゴミと一緒か。いま目の前で消えた世界が……。
もちろんそれが精霊王の役割で世界の均衡を保つために必要だと言葉で説明されただけであれば、仕方がないことだと感じたかもしれない。
だが、今目の前で弾け消えた世界。その消滅した世界にも沢山の人たちが、必死に生きて作り上げてきたものだと考えると、それが一瞬で消え去ったことに恐怖と罪悪感に襲われる。
両親、友人、旅で出会った沢山の村人。彼らの笑顔が、一瞬のうちに弾けて消えてしまう光景が頭を過ぎり、胸が苦しくなる。
『ったく、何が言いたいわけ? せっかくお前が喜ぶと思って連れて来てやったのに』
当たり前のように、そして何でもないことのように言うネル様は、私の反応に面倒臭そうに頭を掻いた。
『相当珍しいものを見せたんだから、素直に喜べよな』
――喜ぶ? 珍しいものを見れた、と。
あの世界の人たちは一瞬で消え失せたけど、私はネル様によって助けられてラッキーだったと。助かる筈のない命が、ネル様の気まぐれでやり直すことができて幸せだと。
消えた並行世界は、私には何ら関係のない世界の人たちのことだと喜べと?
「……いえ、それはできません。ネル様がなさることは世界の均衡を保つためだということも頭で理解はできます。ですが……あまりにも衝撃が強くて」
『何が言いたい』
精霊王という神の存在が、私たちの生活の平穏を作ってくださることは間違いない。だからこそ、ネル様の凄さをより目の前にし、畏怖を感じたのは事実だ。
だが、それを見て無邪気にはしゃぐには、あまりに衝撃が強すぎた。ましてや、違う世界の私や周囲の人たちが一瞬で消えるのを目の当たりにしたのだ。ゴミとして。
仕方がないことと受け止めるにしても動揺が強いのに、喜べという指示に従えるかというと、それは私の心が悲鳴を上げる。
「……とても喜べません」
『は? お前、何言ってんの? 意味が分からない』
目を伏せた私の頭上から、ヒヤリとした冷たい言葉が投げかけられ、ハッと顔を上げる。
その声は間違いなくネル様のはずなのに、全く異なる異質さがある。言葉ひとつひとつが地
響きをあげるように。言葉というより、むしろ、頭を殴られるような痛みを伴う響き。
そして、ゾクッとするほど無表情のネル様がこちらを真っ直ぐに見ていた。
その瞳には、先程までの輝きは失われており、感情を何も映していなかった。凍える程の冷ややかな瞳は、私を一瞬で震え上がらせた。
『お前、まさか。俺のやることに異を唱えているのか?』
ネル様から発せられた声に、思わずヒュッと喉がなる。
地底を這うような響きを含ませた声からは、かつて感じたことのない威圧感がある。
その視線から逃れようと視線を外そうとするが、強引に固定されているかのように全く動かない。喉元にナイフを突きつけられている感覚に、呼吸がうまくできず、見開いた目から溢れ出しそうになる涙を必死にこらえる。
冷や汗が止めどなく流れ、震える足が鉛のように重くなる。耐えられなくなった膝はガクンと崩れ落ちた。心臓はドクドクと脈打ち、尚も全身にまとわりつく恐怖心。
かつて氷の眼差しを持つ陛下と対峙した時とは次元が違う。
――これが……闇の精霊王の姿……。
痺れる唇は口を動かそうとするも上手くいかない。だが、渇きを訴える喉を必死にこらえる。
「い、いえ。そういう訳ではありません。ネル様がなさることを否定するのではありません。私たち人間は、精霊の力により助けられております。メイン軸を遠く離れた世界では、世界を維持するのが難しいからこそネル様が整理をする。それは理解します。なので、これはネル様の問題ではなく、私自身の感情の問題なのです」
『そうか、お前の感情。私には理解できない感情、か。ではこの光も消滅させてみるか。そうしたら、お前はどんな反応をするかな』
ネル様は、私とネル様の間から未だ離れない青い光を手に取ると、それを私の目の前に差し出した。青く光り続ける光は、尚も強く輝き続け、私に何かを訴えるかのようだ。
――何故か、この光は絶対に私が守らなくてはいけない大事なものに感じる。何があろうとも。そう決意させるほどの何か、惹かれるものが光から伝わってくる。
ネル様の言葉の意図をくみ取ろうと、怖くても視線を真正面から受け止める。すると、ネル様は驚いたように眉を上げた。
そして、面白そうに口の端を上げると、表情を和らげた。
『へぇ。俺の力に当てられても、まだそんな顔ができるのか。さすがに驚いたな』
だがその時、ネル様は何かに気がついたようにハッと息を飲み、神妙な顔つきで青い光を凝視した。
「あの……ネル様?」
『……はぁ、分かった。こいつは今のところ手出しはしない。これ以上やってお前が壊れたらつまらないからな。それに……お前が何を考えているのかなんて、俺には全く理解できないし、期待外れだったのは事実だけど』
「申し訳ありません」
『本当に頑固な奴だな。……そこが面白いところなんだけどな。あー、もう少し遊んでみても良いが、もう時間切れのようだ』
ネル様は片方の頬を膨らませて機嫌の悪さを露わにした。そして、深い溜息を吐きながらパチンと指を鳴らす。
すると、一気に周囲が明るくなり、辺りの眩しさに目がくらむ。だが、すぐに目が慣れてくると、そこが自分に与えられている部屋であることに気がついた。
『今からちょっと出かけてくる。だから、好きに過ごすといい』
「あっ、はい。……あの、ありがとうございます」
先程の威圧感をサッと取っ払い、いつもの緩い表情に戻したネル様に、私は戸惑いが隠せなかった。
颯爽と姿を消したネル様と反対に、ひとり取り残されたように私はその場から動くことができなかった。