2-23
『ニャー、ニャー……ェル……ラシェル』
戸惑いながら辺りを見渡す私の耳に、小さく鳴き声が聞こえてきた。
だが、すぐにその声は私の名を呼ぶ声へと変化する。その声を辿るように下を向くと、そこには私の足元をグルグルと回るクロの姿があった。
「クロ、あなた喋れるようになったのね! あら? ってことは……ここは……」
『ここは精霊王のお家だよ!』
「お家!? えっ、精霊の地ということよね?」
クロが会話をできるようになっているということは、ここは以前来た闇の精霊が住まう精霊の地に他ならないのだろう。
そうだとして、クロの言う精霊王の家というのはどういうことだろうか。
『神殿のことだよ! ここは精霊王が住んでるとこ』
――精霊の地の神殿? この立派な場所が……。
失礼にならないように視線で周囲を見渡す私を、ネル様はクスッと愉快そうに笑った。
『そっ、ここは俺や精霊たちの家みたいなところ。お前もしばらくはここにいればいい。お前の魔術の練習も俺直々に付き合ってやるし』
「ここに……ですか? ですが……」
『あぁ、その話って長くなる? 説明とか面倒臭いな……とりあえず、質問は全部あいつにしてくれ。お前の身の回りのことは、あいつらがするからな』
ネル様は私の反応に眉を顰めて、頭を掻きながら顎で私の後方を示した。
そこにいたのは、以前背に乗せてくれたことがある黒馬と8歳ぐらいの少女の見た目をした高位精霊だった。
少女のような精霊はソワソワと落ち着かないように視線を動かしていたが、私と目が合うと恥ずかしそうに黒馬の後ろに隠れてしまった。
『じゃ、そういうことで。俺はちょっと休むから』
そう言い残して、ネル様はあっという間に姿を消した。
未だ状況を掴めないまま残され、戸惑う私に、黒馬がひとつひとつ丁寧に説明してくれた。
ここは精霊の地であり、ルイ様もまたここに連れてきていること。
ルイ様は神聖な魔力が溢れるこの環境と共に、精霊王自らが日々少しずつ魔力を流すことで身体面は回復していくだろうことを説明してくれた。
更には、高位精霊と共に、私の今後の仮住まいである部屋に案内してくれ、滞在中の衣食住は全て、精霊王付きの高位精霊たちが世話することが伝えられた。
『この地に人間が滞在するのも数百年ぶりだ。何かあれば遠慮なく黒猫に申し付けよ。ただ、闇の精霊は人に慣れていないため、姿をめったに現さないかもしれないな』
説明の最後に黒馬はそう言った通り、クロは私の側にずっといて、この神殿内を案内してくれた。だが、高位精霊たちを見かけることはほとんどなかった。
気がつくと、テーブルに食事が用意されていたり、湯あみの準備や着替えの準備さえされていた。
時々気配に気がついて振り返ると、興味津々にこっそり覗いている姿があった。だが、目が合うと途端に驚いて消えてしまうことがほとんどだった。
また、以前ここに来たときは闇の精霊の住まいであるこの精霊の地を見て回ることは叶わなかった為、この森の一部しか知らなかった。
滞在したことで、この精霊の地の広さと自然の豊かさに改めて驚く事になった。ここは、まるで以前ルイ様と尋ねた花の離宮のように穏やかだ。また、この立派な神殿は、湖畔に建てられていた。この神殿の離れに私とルイ様の部屋として借りている状態だ。
ここに来てからまだ3日だけれど、本当に3日しか経っていないのかはわからない。なぜなら、この精霊の地は外と時間の流れが違い、緩やかに過ぎるらしい。
それに、ここの主は何といっても時を操る闇の精霊王なのだ。
何だかんだとこの3日は、ほとんどこの部屋で過ごすことが多かったが、それ以外はネル様から一緒に食事を取ろうと誘われたり、闇の精霊を紹介すると森のさまざまな場所を案内してもらっていた。
それでも、ネル様は私が気になっていることは全て愉快そうに笑いながら躱されていた。だからこそ、ルイ様がいつ目覚めるのかも、ゲームとは何のことかも。そして、私をここに連れて来た目的さえも何も教えてはもらえていない。
――それでも、今は闇の精霊王を信じるしかない……。
一切表情を変えることなく眠り続けるルイ様の顔を眺めながら、そんなことを考える。
すると、突如ポンと肩を叩かれたことで、ビクリと体が揺れる。
『おい、聞いているのか?』
顔を上げると、そこには不機嫌そうに顔をしかめるネル様の姿があった。
『お前さ、俺のこと放っておくとか良い根性してんじゃん』
「と、とんでもございません! 精霊王様を放っておくなど」
『ほら、またその堅苦しい呼び方に戻ってる。名前で呼べって言っただろ」
「も、申し訳ありません」
『まっ、いいけどさ。お前がいると暇つぶしに良いからな。それよりさ、今日はいいとこに連れてってやるよ!』
「え?」
ここに来て知ったことは、ネル様は気が向くとふらっと寄ってきて、飽きるとどこかに行ってしまう。まるで猫のよう。
今も私の膝の上で丸まっているクロの頭を撫でながら、どこか似ている気がするな、と苦笑いになる。
「どこに行くのですか?」
『それは着いてからのお楽しみ。きっと凄い驚くぞ!』
ネル様はニコニコと明るい笑みを浮かべながら『ほら、早く行こう』と私を急かした。そんなネル様に、今度はどこに行くのだろうかと内心首を傾げながら、クロを抱いたまま立ち上がった。
先日は気が向いたからと、闇の魔術の練習に付き合ってくれたことがあった。だが、今日はどうやら違うらしい。神殿の地下へと続くらしい長い長い階段を下りていく。
静けさと共にひんやりとした肌寒さを感じながらネル様の後ろから周囲を観察する。
『ここに誰かを連れてこようと思ったのは初めてだ』
「そのような場所に、なぜ私を?」
『驚くかなって思ってさ。お前にこの部屋を見せたらどんな反応をするかなって思ったら、居ても立っても居られなくなったんだ』
階段を下りた先にあったのは、大きく頑丈な扉だった。ネル様はその扉を愛おしそうに撫でながら、目を輝かせながらこちらを振り返った。
その姿はまるで、大事な宝物をこっそり見せてくれた子供のよう。邪気もなく天真爛漫なふるまいは、私がそれを見た時に喜んでくれると信じている顔をしていた。
『さぁ、行こうか』
その扉が開かれた瞬間、眩い強烈な光が部屋の外まで漏れた。
だが、さっさと進むネル様に続くように部屋に足を踏み入れると、途端に部屋は暗闇に包まれた。
と同時に、頭上に数えきれないほどの星が瞬く夜空が視界いっぱいに広がった。
「ここは……一体……」
『ここは、俺のとっておきの遊び場だよ』
部屋の奥行さえもわからない、辺り一面星空の空間で、ネル様は柔らかい笑みを浮かべた。