2‐17 ルイ視点
『さて、君の大事なお姫様は預かっておくよ。ちゃんと間違えずに迎えに来ることができるかな?』
――誰の声だ。
暗闇の中、ラシェルが何度も何度も私を呼ぶ声が聞こえる。その声に応えなければいけない、と腕を動かそうとする。だが、どういうことか体がいうことをきかない。
「殿下、殿下……殿下!」
頭の中で遠くに響く自分を呼ぶ声に、徐々に意識が浮上する。
「……シリル?」
「一体いつまで仕事をしていたのですか。ソファーで寝ていては、体も休まりません。あぁ、ここ数日の溜まっていた仕事は全部片づいたようですね」
自分を呼ぶ声に目を開けると、そこにはこの場にいないはずのシリルの姿。閉じそうになる目を何とか開けて覚醒しようと頭を働かせる。
そんな私を気にも留めない様子で、シリルは目の前の書類の束を見ながらひとつ頷いた。
「は? シリル、なぜお前がここに?」
「なぜ? 朝だからですが? むしろ他に何か理由がありますか。さぁ、殿下。今日も仕事は沢山ありますよ」
「待て……すまない。頭が整理できていないのだが、私はオルタ国にいたはずだよな。それがなぜ自分の執務室にいるんだ」
デュトワ国にいるはずのシリルがこの場にいることを不思議に思っていたが、周囲を見渡してみると、そこは私にとって何より馴染みある場所だった。
今までソファーで寝ていたようで、自分の体にはブランケットがかかっている。私はよく明け方まで仕事をすることも少なくなく、1時間程仮眠を取ろうと思った時は、仮眠室でも寝室でもなくソファーで休むことがあり、それをいつもシリルに咎められる。
そう、常であれば問題ないこの状況ではあるが、何よりもおかしいことが一つある。
私は確かに今オルタ国にいるのだから。
「何を仰りたいのかがわかりません。夢ですか? 国王即位の式典は恙なく全て終えて、オルタ国からは先日戻ったばかりではないですか」
「いや、そんなはずは……狩りを……。怪我が治っている? 確かに私は崖から転落して……」
頭を触ってみるが、包帯が巻かれているようすもない。あんなにも高い崖から転落したというのに、ぱっと見たところ傷一つしていないようだ。
意識を失ったまま帰国したのか、それとも頭部を打った衝撃で数日の記憶を失っている……なんてこともあり得るのか?
何より、同盟国の王太子である自分がオルタ国の王妃により大けがを負ったというのに、恙なく? ……どういうことだ。
「まったく。どんな夢を見ていたのですか。一緒に参加された聖女アンナ・キャロル嬢も今日から大教会で仕事を始めているはずですよ。とりあえず花束を殿下の名で出すように手配しておきました。いつも面倒だと仰いますが、一言カードでも添えた方が感じは良いと思うので、後でちゃんと書いてください」
……は? なぜそこでアンナ・キャロルの名前が出るんだ?
彼女はそもそも招待されてもいないし、ましてや同行もしていない。しかも花束を贈る理由さえないというのに。
「は? なぜキャロル嬢? ……夢か?」
「はぁ。こんなところで寝るから寝ぼけるのですよ。ちゃんと寝室で休んでくださいと何度も言っているでしょう」
「……ラシェル。ラシェルはどこだ」
頭を振りかぶって、現状を把握しようとする。だが、どうにもうまくいかない。先程からかみ合わないシリルとの会話を整理するためにも、とりあえず目をしっかり覚まさなければ。
自分の掌を強くつねってみる。すると、やはり痛みは感じる。……ということは夢ではないのか? ますます訳がわからない。
あぁ、でもまず何よりラシェルに会いたい。
イサーク殿下と共に先に王宮に戻るように伝えてから会っていないのだから。私があんな状態で帰ったことに胸を痛めているはずだ。
ラシェルに会ってまずは心配をかけたことを謝らないと。いや、違うな。私がラシェルの顔を見て、安心したいだけなのかもしれないな。
「ラシェル・マルセル……のことでしょうか」
「あぁ。今日ラシェルに会いに行く。侯爵家に先触れをだしてくれ」
顔を上げてシリルへと視線を向けると、シリルは書類を手に取ったままピシリと石のように固まり驚愕に目を見開いた。徐々に顔色を悪くし、亡霊でも見るかのようなシリルに、私は眉を顰める。
――何だ。その反応は。
「殿下……何を仰っているのですか。ラシェル・マルセルは3ヶ月前に亡くなったではないですか。修道院へ向かう道中に、賊に襲われて……」
その瞬間、音が私の世界から消えた。
色が消えた。
シリルの口から発せられた言葉の意味を頭に入れることがうまくできない。
――は? 何を……一体何の話をしているんだ。
亡くなった? 修道院? 賊?
なんのことだ。
ラシェルが……いない、だと?
全身から血の気がひけると共にガツンと鈍器で後ろから殴られた感覚がする。
自分の今現在の状況が異常だと告げるように、大きな警告音が頭に鳴り響く。
「そんなはずが……ないだろう。何を言っているんだ……」
シリルが私の異常な様子に珍しくうろたえているのが視界に入る。だが、だからこそ先程からのシリルの発言が冗談ではないといっているようだった。
きっとシリル以外の人物からこの話をされていたら、冗談でもそんな話をするなと怒鳴り散らした可能性さえある。だが、シリルはこんな嘘をつくはずがない。
両手を顔の前で組み、手に力を込める。
――夢だろう? いや、夢でなければどうなっているんだ。……ラシェルが死……いや、考えることもしたくない。
己がラシェルのことになると狭量になることは自覚しているが、夢であろうと冗談であろうとラシェルを失うなど許せるはずがない。
ジワリジワリと目の前が赤く染まるのを感じる。怒りを一旦落ち着かせるために、むりやり大きく深呼吸し酸素を脳に送り込む。だが、どうにも冷静な判断が下せない。
だが、ひとつ確実なのはシリルが嘘を吐くはずはない。だとしても、ラシェルがいないなんてことは更に考えたくもない。
シリルも私も互いをおかしいと感じているはずだが、何がどうおかしくなっているのかを一刻も早く理解しなければならない。このまま頭が沸騰して自分が危険な行動を取る前に。
今私が冷静に状況を把握するためにも、ひとりの人物が自分の頭に浮かんだ。
「……テオドールを今すぐ呼べ」
「……殿下。テオドール様は、ラシェル嬢の件で口論になって以来お会いになっていないではないですか。それに魔術師団に長期休暇を申請したテオドール様が今どこに滞在しているかも……わかりかねます」
その答えに大きく落胆すると共に苛立ちに目をきつく瞑る。
「殿下! 血が……」
シリルの焦った表情と声で自分の握りしめた拳を見ると、力を入れすぎたためか爪で傷つけていたようだ。血が滲んでいる。
それでも、私は握りしめた拳の力を抜くことができない。
この世界は一体どうなっている。
私は今どこにいるんだ。
ラシェル……君は今どこにいるんだ。
しばらくルイ視点が続いていく予定ですのでお付き合いください。
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さかもとびん先生が担当してくださっており、Comic Walkerならびにニコニコ静画で配信されています。
ぜひお読みいただけると嬉しいです。





