2‐16
力なく目を固く瞑ったままのルイ様に私はただ縋り付いて泣くしかできなかった。
恐怖と絶望感に全身が冷え切り、唇がガタガタと震える。だが、今の私にとってそんなことを気にする余裕は全くない。
――このままでは……このままではルイ様が……。
目の前が真っ暗な闇に包まれるような気がすると共に、無意識に手に力が入る。意識が朦朧とし、心が悲鳴を上げる。
だが、その時。
「止めろ」
私の肩を力強く掴む手に、浮上した意識が戻りハッと顔を上げる。そこには眉間に皺を寄せ、かつてない程に厳しい顔をしたテオドール様の姿があった。
「魔力が溢れている」
「テオドール様……ですが……」
「その力を使えばルイの体が壊れる。それに過ぎた力を使えばラシェル嬢もただでは済まなくなる」
「……では、どうすれば……どうすればルイ様が目を覚ましてくれるのでしょう……」
テオドール様は私の問いに、更に眉間の皺を深くし、そのまま目を閉じて首を横に振った。
――っな……そんな! テオドール様でさえも何もできないというの?
「そんな……嘘……嘘でしょう? ルイ様、起きて。起きて一緒に国に帰りましょう?」
「……ラシェル嬢」
「ずっと側にいてくれると……一緒にいると……ねぇ、ルイ様。ルイ様……」
ルイ様がいつも好きだと言ってくれた笑みを浮かべて肩を優しく揺さぶる。きっと今の私は上手く微笑みを作れていないだろうけど、それでもルイ様が少しでも反応してくれるなら。可能性があるのなら私はなんだってする。
私が辛い時、ルイ様がいつだって抱きしめてくれた。
私が苦しい時、寄り添ってくれた。
あなたがいてくれるから、私は強くなれたのです。あなたがいたから、私はどんな時も真っすぐに立つことができたのです。
あなたを愛しています。ルイ様だけを。
だから……。
「お願い、お願いだから……起きて。目を開けて」
ルイ様の手を強く両手で握りしめ、祈るように額を擦り付ける。
だが目を固く瞑ったまま横たわるルイ様は、いつものように私に微笑みかけてくれることはない。目を細めて眩しそうに見つめてくれることもない。
肩を揺らして声を上げて笑うことも、凛と通る声で『ラシェル』と私の名を呼ぶこともない。
ただ、深く眠るように目を閉じ睫毛さえ自力で揺らすことがない。
駄目、駄目……お願いだからルイ様を連れて行かないで。私から奪わないで。
ルイ様を失うかもしれない恐怖に、周囲の声さえも聞こえずにルイ様の胸に縋りつく。すると、トクントクンと心音が私の耳に響く。
弱くゆっくりであるが、今この瞬間ルイ様は生きている。
必死で生きようとしている。
「嫌、嫌よ。このまま何もできないなんて。そんなの嘘よ。だって、ルイ様は……まだ……。
テオドール様……リカルド様……何か……どうにかルイ様を助けられませんか」
「……っ……申し訳……ありません」
リカルド殿下はきつく唇を噛み締めて悲痛な表情をした。だが、そんなリカルド殿下に労わりの言葉をかけることもできないまま、私は力なく項垂れた。
過去に戻り、人生をやり直した。以前は見ようともしていなかったルイ様の素顔を知り、恋に落ちた。同時に世界の広さ、美しさを知った。闇の精霊王からの加護をいただくことができた。
新たな生で過去にはなかった沢山のものを手にしたにも関わらず、たった一人のかけがえのない愛する人に、その力を揮うことさえ敵わない。
大切な人ひとりを守ることもできないのに……何のために魔力を持っているのだろう。
何度も自分の無力さを実感したが、今ほど自分自身に憤ったことがあっただろうか。
私は自分の震える両手を見つめたあと、その手で顔を覆った。ルイ様をどうにか助けることができないだろうか。
お願いします。どうかどうか助けてください。と、奇跡を願うことしかできないまま。
「ルイ、なんでだよ……。いつも一人で何とかしようとするのは悪いところだ。お前がいなくなったら、誰がラシェル嬢を守るんだよ。誰が国を豊かにするんだよ。まだお前はこれからだろう? 何も始まってない。お前の幸せもこれからだろう? ラシェル嬢との結婚式だってこれからだ。お前のことだから、ドレスをまたデザインするとか言いかねないよな。……それから沢山の子供に恵まれて、孫だって沢山いて。俺もお前も顔中皺くちゃで髪だって真っ白になってさ」
私が座る反対側のベッドサイドにテオドール様がしゃがみ込んで、ルイ様の顔を覗き込む。苦しそうで、どこか悔しそうな表情にも関わらず優しく語り掛けるテオドール様の声色に、私は堪えられなくなった嗚咽が漏れる。
「人生そう悪いもんでもなかったな、なんて爺さんになっても一緒に軽口たたきあうんだ。そうなってから、ようやく迎えはくるんだよ。……今じゃない。なぁ、帰って来いよ。お前がいないと……」
テオドール様の声は徐々に小さくなり最後に呟かれた「俺は寂しい」という言葉は、側にいた私にしか聞こえていなかったのかもしれない。
親友からの懇願も空しく、ルイ様は指一本さえ動くことはなかった。テオドール様はじっと耐えるように拳を強く握りしめたあと、「悪い。少し外す」と顔を俯かせたまま乱雑な足取りで席を外した。
いつの間にか、私の周囲には人がいなくなっていた。リカルド殿下が人払いをしているのが後ろから聞こえてきた。だが、今の私にはそれに気をまわす余裕は一切なかった。
クロだけルイ様の枕元から離れずに『ニャー』と悲しそうに鳴きながら額を労わるように舐めていた。
どれぐらい時間が経ったのかわからない。数秒なのか数分なのか。もしくはそれ以上か。部屋には私の悲鳴のようなルイ様の名を呼ぶしかできない声だけが響き渡る。
何も考えられず、無力感と絶望に暗闇に引きずり込まれていく感覚さえある。
ただそれを支えてくれるのは、ルイ様の温もりだけ。
それさえも失ってしまえば、自分がどうなるのかも分からない。考えたくもない。
その時、クロがピクリと耳を動かして、ピョン、とベッドから飛び降りた。それをうまく開かない瞼を持ち上げながら、視界の端にいれる。
すると、クロが駆け寄った先に誰かが立っているのが見えた。
ゆっくりと視線を上げる。
そこには、この場にいるはずがない人が、悠然と椅子に腰かけていた。極限まで目を見開き驚愕に声を失う私に、その人は愉快そうに笑みを浮かべた。
『さて、迎えに来たよ。楽しいゲームの時間だ』
目の前の人物は、この場の空気に相応しくない明るい声色でそう言うと、軽やかにパチンと指を鳴らした。
その人は間違いなく、あの森で会った時と同様に圧倒的な存在感を放つ闇の精霊王であった。