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殿下とのお出かけから数日が経った。あの日以来、私の左手薬指には殿下から貰った指輪を着けており、ことあるごとにそれを眺めることが増えた。
鷹の紋章を見るだけで、殿下の凛々しいお姿が目の前に見えるような気がして、殿下をより一層近く感じる。それに、この指輪は私の指にすぐ馴染み、まるで以前から着けることが自然のような、どこか不思議な感覚がある。
「そんなに熱心に見つめてくれると贈った私も嬉しいが、今日は私の方を見てくれるとより嬉しいかな」
「あっ、殿下! 申し訳ありません」
焦る私を他所に、殿下は口元を手で覆いながら肩を揺らせて笑いを溢した。そして、「いや」と前置きしながら目を細めて「ラシェルが喜んでくれたなら、それが私にとっては何より幸せだ」と嬉しそうに頬を緩めた。
その表情に、私の顔が一気に熱が集まるのを感じる。
「いただいた日から、気がつくと眺めてしまっていて……」
「ラシェルにそんなに熱心に見つめられるとは、指輪が羨ましいな」
殿下は私の手を取り優しく唇を落とすと、口の端を上げた。
その色気を醸し出す表情に、思わず赤面し手を引っ込めようと動かすが、それは殿下によって遮られギュッと強く握りしめられた。
「もう逃がすつもりはないからね」
「逃げるなどと……そのようなことはしません」
私の言葉に殿下は嬉しそうに、愛おしそうに甘い笑みを向けてくれる。いつも王太子として朗らかな笑みを張り付けた殿下が、私には素の表情をみせてくれると思うと、それだけで信頼してくれているのだと思えて嬉しくなる。
と同時に、殿下のこの笑顔を独り占めしたいだなんて……そんな卑しい考えも浮かんできてしまうのだ。
――殿下に沢山笑顔になってほしいのに、それを他の人に向けてほしくないなんて。自分の嫉妬心に呆れてくるわ。
一度目の人生で私は虚栄心と嫉妬心で身を滅ぼしたのだもの。もう同じ過ちは繰り返したくない。
それでも、もし殿下が私の心の中を知ってしまったとしても……どうか、どうか嫌わないでほしい。
胸の奥で黒く渦巻くモヤを深い底に隠しながら、そう願わずにはいられない自分に対し、また心の中で溜息を吐く。
「ラシェル、やっぱり今日は止めようか?」
「え?」
「とても不安そうな顔をしているし、それに……」
殿下の視線を追うと、そこには殿下のジャケットの裾を掴む私の手。
――またやってしまった。
心配そうに私の顔を覗き込む殿下に、顔が青くなってしまう。
最近、殿下に言われて気がついたのだが、私はどうも殿下と一緒にいると気が緩んでしまい、自分でも考えられない行動をしてしまうようだ。
「も、申し訳ありません」
殿下の服からパッと手を離すと、殿下は私の髪を優しく撫でた手を頬へと滑らせ、眉を下げた。
「君が抱え込みやすい性格であることはよく知っている。それでも、不安なことや嫌なことは私も共有したいな。それに、ラシェルにそんな顔をさせてしまう原因は大抵私にあるのだろうから」
「そのようなことはありません! 殿下にお会いするだけで、私は幸せな気持ちになるのですから。今日だって、殿下に会えるのを楽しみにしていて……」
「ラシェル……」
殿下は私の言葉に目を見開いたあと、一瞬で満開の薔薇を背景にしたように破顔した。
だがその直後、視線を遠くに僅かに見える大きな扉へと向けて、溜息を吐いた。
「私もだよ、ラシェル。君に会うだけでいつだって私は浮かれて、心が満たされて、幸せなんだ。だからこそ、今日本当にこのまま陛下に謁見することが良いことなのかを計りかねている」
陛下に謁見する。その言葉に、思わず体が強張る。
だが、今日陛下に謁見することを決めたのは私自身なのだから、と自分を強く保とうと足を踏ん張り殿下へと視線を向ける。
「ラシェル、本当にいいのか」
「殿下、心配していただきありがとうございます。……でも、私が希望したことですので」
「だが、陛下はまた君を傷つけることを言うかもしれない」
そう、今日は陛下と話をするべく王宮に参上したのだ。
というのも、正式に陛下に私が闇の精霊王から加護を授かったことを報告したからに他ならない。
以前までの私であれば、再びまたあの氷のような陛下の視線に耐えかねて、逃げ出したくなっていただろう。
それでも、私は殿下の妃になると決めたのだ。陛下を前にして何も言えないようでは、王太子妃、そして王妃になる資格などないだろう。
何より殿下がいてくれる。だからこそ、ひとつひとつ自分が向き合うべき問題に目を逸らすことなく立ち向かえるのだ。
「えぇ、分かっています。それでも、私は殿下の隣に立つ者として、陛下から逃げるわけにはいきません。それに、もうあの扉の向こうには陛下がいらっしゃいますし……ご迷惑でなければ」
「ラシェル……」
おずおずと殿下を見つめると、殿下は困ったように眉を下げながら「あぁ、分かった」と微笑みながら腕を差し出した。私は殿下の腕に心強さを感じながら、そっと自分の手を添えた。
「では、共に陛下に立ち向かうとしようか」
「はい」
殿下と共に、陛下の執務室の扉の前へと進む。王太子執務室とドアは同じはずであるのに、扉からも重々しさを感じて足が竦む。
そんな私を気遣うように視線を向けた殿下に、大丈夫だという気持ちを込めて微笑む。すると、殿下に私の考えが通じたのか殿下も優しく微笑みを向けてくれた。
そして、殿下は鋭い視線で扉を睨むように前を見ながら、ノックをする。
「どうぞ」
ノックの音にすぐに反応したように扉が開かれると、そこには宰相の姿があった。宰相はにこやかに「王太子殿下、マルセル侯爵令嬢。本日は私も同席しますので」と言いながら、入室するようにと手の動きで促した。
正直、宰相がいることは予想していたとはいえ、緊張が走る。
陛下の圧倒的な存在感にも埋もれず、常に友好的に微笑みながらも有無を言わさぬ空気を出す方という印象だ。
以前、宰相を伯父に持つシリルが《相手の懐に入るのがうまく、優位に立っていると油断した瞬間に奈落に突き落としてくる狐だ》と嫌そうに話していたことも、珍しく苦手意識を露わにしていたのも記憶に新しい。
「あぁ。陛下は?」
「既にお待ちです」
その言葉に、隣に立つ殿下からピリッと硬い空気を感じたため、殿下を窺うように視線を斜め上へと向ける。そこには先程までの柔らかい雰囲気を微塵も感じさせず、眉を顰めながら、ただ一点を真っ直ぐに見る殿下の姿があった。
そして、その視線の先を辿ると。
「何をもたもたしている。時間はさほど取れないのだから、早く座れ」
そこには悠然と座り、こちらを見る国王陛下の姿があった。