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『ここだとお喋りできる』
駆け寄ってきたクロを抱っこしながら顔を覗き込むと、クロはキラキラしたまん丸の瞳で私を見つめた。
……そうか。
この精霊の地は、さっきよりもずっとクロの魔力を強く感じる。
ということは、この場所は精霊の力が増すのかもしれない。
それによって会話が可能なのかも。
「驚いたわ……。でも、あなたと話せたらってずっと思っていたから、嬉しいわ!」
『クロも。ラシェル全然クロの言うこと分からないから』
「え? そうだったの?」
知らなかった……。
最近はテオドール様程とはいわなくとも、クロとは以前より意思疎通が取れていると思っていた。
少なからずショックを受けている私など気づきもしないかのように、クロはキョロキョロと周囲を見渡す。
『クロ、ラシェルをここに連れてきたかった』
「ここに? そういえば……前に私、意識を失っていた間にこの場所に来たの。その時にクロと会ったのだけど、あれは……夢? それとも本当にこの場所に来たのかしら」
『来たよ。クロが案内した』
やっぱり。
ということは、やはりあの過去を見たことは夢ではなかったということなのだろう。
「あれは……あの時見たことは、本当にあったということね。間違いなく、私の過去……なのよね」
ポツリと呟いた私の声に、クロは不思議そうに首を傾げた。
『クロはラシェルの側にいるように言われた』
「言われたって……誰に?」
私の問いかけに、クロはプイっとそっぽを向いた。
この反応の時のクロは、もう何も話さないということなのだろう。
だが、クロが話してくれたことで分かったこともある。
クロが私と契約したことに、クロ以外の誰かが関係している、ということなのだろう。
だとして、誰が?
考えても分からない。
でも、もしかすると以前この森で聞いた《思い出せ》という言葉。
あの声の主が関係しているのかもしれない。
「ところで、この精霊の地とはどんな場所なの?」
『お家だよ?』
「お家? 精霊の住処ってことかしら」
『そう』
話を変えたことで、クロはようやく私のほうへと顔を向けた。
この質問は問題なかったようで、クロは楽しそうに周囲を見渡しながら教えてくれる。
『クロのお気に入りの木に連れていってあげる!』
「それは楽しみだわ」
その時、大きな風が私の頬を掠める。
『猫。のんびり喋っている時間はない』
突如、クロよりも大人びた声が頭上から聞こえて、何事かとハッと見上げた。
すると、空を駆けながら近づいてきた黒馬が、私たちの目の前に凛々しい姿で降り立つ。
「あなたは……さっきテオドール様が仰っていた精霊……かしら」
『そうだ』
先程までは見ることが叶わなかった馬の精霊が、目の前にいる。
その事実に少なからず驚いてしまうが、腕に抱いたクロは嬉しそうにその黒馬へと前足を伸ばした。
やはり闇の精霊はクロだけではなかったのね。
実際にクロ以外の闇の精霊を目にすると、不思議な感覚がある。
クロと契約しているからなのか、この黒馬からは冷ややかな物言いとは違い、穏やかな空気と親しみが込められているようにも感じる。
『何をそんな珍しそうに』
『この国の人間は闇が珍しいって』
『そうなのか?』
ジロジロ見てしまっていたのか、黒馬は不思議そうに私に顔を近づけた。
『まぁ、いい。時間がないから、早く背に乗れ』
――背に乗る?
この黒馬に乗る、ということだろうが……時間がないとはどういうことなのか。
戸惑う私に黒馬は気がついたのか、『あぁ、乗れないのか?』と呟くと、頭を私の頬に寄せた。
その瞬間、ふわっと体が浮く。
「わっ」と驚きに声を上げる私とは無関係に、私の体は勝手に黒馬の上へと浮遊し、その直後ストンと馬の背に座る形で綺麗に降りた。
『連れていってやろう』
「え、どこに?」
そう問いかけた私の声は、空中へと消えて微かに聞こえるのみだった。
というのも、私とクロを乗せた黒馬は、森が一望できるほど高く空を駆けたのだ。
あまりに衝撃的なことで、言葉を失う。
まさか、鳥のように空を飛ぶことができるなんて……。
空が近い。
木のてっぺんが見える。
少し先には湖も。
遠くには神々しいまでに連なる山々が。
――なんて凄い景色。
「こんなにも美しい場所を空から眺められるなんて……」
とても信じられない……。
目の前の光景を目に焼き付けようと、辺りを見渡した。
自然と頬は紅潮し、口角が上がる。
『我らは自然がなければ生きてはいけない。故に精霊は住処である森を守る』
「では、この場所はあなたたち精霊の魔力でこんなにも生き生きとしているということなのね」
『そうだよ!』
精霊の力とは、なんと凄いものなのかしら。
そして、その力の源はこの自然なのだ。
川や湖、海であり、草木や花々であり、この大地なのだ。
この大地全てから生命力を感じる。
『今より昔、人と精霊は共に自然の中で暮らしていた。今は時代が変わったが、共に自然を守る必要がある』
そうか、そういうことなのか。
何故、力を持つ精霊が人と契約するのだろうと考えたことがある。
だが、歴史の中で人間と精霊が今より近しい距離にいたのであれば、納得する。
「ところで、どこに向かっているのかしら」
『湖だよ』
「湖? そこに何かあるのかしら」
『行けば分かる』
周囲を眺めながら問いかけると、クロに視線で湖の方角を指示される。
そこには、木で隠されるように覆われた美しい湖があった。
陽の光が水面に反射して輝いており、風に舞った葉っぱが湖面に吸い込まれるように静かに落ちる様は、この世のものとは思えないほどに綺麗だ。
「ここが……。なんて美しいの。水が輝いて見えるわ」
黒馬は、先程私を乗せた時と同様にふわっと体が勝手に浮かぶようにして、優しく地面に降ろしてくれた。
湖面を覗き込むと、自分の顔が水に映った。隣に立つクロも同じように湖を覗き込んだ様子まで、鏡のようだ。
思わずその水を両手で掬う。
「冷たくて気持ちいい……」
私が掬った水にクロは顔を寄せると、ペロっと舐める。
その姿に思わず頬が綻ぶ。
『お気に召したか』
突然後ろから聞こえてきた声に、ビクッと肩が揺れ、両手に掬っていた水がパシャと地面に吸い込まれる。
「誰?」
恐る恐る振り返ると、先程の黒馬の頭を撫でている青年がそこに立っていた。
黒馬も大人しく青年に体を寄せている。
――いつの間に……気配など何もなかったのに。
私と同年代に見える青年は、肩上ぐらいの黒髪に大きくて若干吊り上がった目を私へと向けた。その瞳からは、親しみと興味を覗かせており、嫌な視線は全く感じさせない。
何より、楽しそうに笑う口元には八重歯が、人懐っこい雰囲気を滲ませる。
『ようやくここに辿り着いたか』
その青年は、私の目の前に歩み寄ると嬉しそうに目を細めた。
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大変な状況なのですが……。
書籍の発売までもうすぐ……ということで、今のところ9日、10日と更新する予定ではいます。
皆様、体調に気を付けてお過ごしください。