春に目覚める
空が哭く、小さな花弁を濡らし、雲がゆるゆると地面を流れて行く。
嘗ては、煮えたぎる火山の開口部だったこの場所は、一度全てが湖となって水没し、やがて自然の堰がほどけると、今度は緑あふれる秘密の箱庭となった。
残された外輪山が下界から人の侵入を阻み、高山植物たちがを花畑を作る一時の楽園。
草花を渡る蜜蜂はこの地の固有種で、忙しく薄羽を震わせては、ブーンと音の尾をひいた。
羽虫を追いかけ、カルデラと言われるこの窪地を見渡せば、丁度中央辺りに小さな小山を見出だせる。
新しいそれは再開された火山の活動の証だが、生き物の時間感覚では動かず、静かなものなのだろう。
他と変わらず苔や這いつくばる植物によって、装飾されていた。
その中で一つ異質に目を惹くのは、火口丘そのものではなく、その足元に深々と埋まった銀色の球体だろう。
何時から在ったかと問われれば、20年ほど前。それはまだここに多くの水があった頃。
空を埋め尽くす流れ星と共に、落ちてきたモノだ。
形は楕円で、風雨に晒されてきた筈なのに、風化は見られず滑らかだ。
まるで作りたての様に、空の青さを写している。
ある種の大型魔獣の卵のようではあるが、近くに親もなく、ずっと孵ることなくそこに在った。
誰にも気にも止められず。ただ、景色に浮いて沈むこともなく。
昨日も今日も明日も、ずっとそこに在るのだと思われた。
ところがふとそこに、天から梯子が掛けられた。
厚い雲を割って差し込む光により、平穏が壊され結界が解ける。
何処か遠く、神々がそれと決めたのだろう。
滑らかだった卵の表面に、小さな罅がきざまれ、それはみるみる大きくなった。
枯野に広がる野火のように、止めるすべなく全てを覆い。やがて限界に達して溢れさせる。
それは琥珀色の妙なる液体と、それに護られていたらしき人の姿。
転び出たままその人は、緑の絨毯に倒れ伏す。
長い月日の中で、身長より長く伸びてしまった黒髪が、辺りに散らばり花園に紋様を描いた。
その人が身に纏っているのは、裾の長い神殿騎士の様な服装で、誰が見ても一目で力ある特別な品だと解る物だ。
更に、背には白と黒の翼が畳まれており、何れもがけっして彼が常人では無い事を示していた。
武装した状態のままなのは、この場所に落ちる直前まで、戦いの中に居たからなのだろう。
共に落ちた護り刀の双曲剣も、草地に転がった。
彼が閉ざしていた唇を開き、実に20年振りの酸素を胸に取り込む。
少し噎せては、肺を膨らませる事に従事して。
僅かな時間横になり、春とは名ばかりの山の空気を取り込むと、うっそりと瞳を開けた。
優しい風が、頬を撫で前髪を揺らす。
先程まで全身を濡らしていた琥珀色の液体、アムリタは蒸発したのかいつの間にか乾いていた。
周囲に四散していた卵の殻も、氷の様に解けて消えている。
黒い瞳を数度瞬きし、先ず彼の視界に映ったのは自身の左手だったろう。
地に投げ出された指先に、赤く小さな天道虫が伝って歩いているのを見付けたはずだ。
彼はぼうとそれを目で追った。
指先を小虫は彷徨き、曲げられた指の節を頂上だと認めると、パカリとさや羽根を解いて飛び去って行った。
ほころびにより、目覚めたある春の事であった。




