⑤ゴブリンの生態(後)
音を立てないよう慎重に、炎の光の漏れる先を窺うために足を運ぶ。
微かに響いてくるゴブリンの声が聞こえる。
何か話すような規則性あるもの、奇声としか言えない叫びのようなもの、ゲッゲッゲッというカエルの鳴き声みたいなのは笑っているのだろうか……。
カーラの買い出しの荷には酒も大量にあったはず。
どこか愉快な雰囲気がするのは、酒盛りでもしているのだろう。
油断してくれているのは有り難い……だが、声の数からすると、かなりの数がいるかもしれない。
これはなかなか厳しいかもしれないな、一旦は外で待機して応援を待つか……。
いや、そんなことをしていたらカーラの命が……。
そんなことを延々と考えながら、俺は歩を進めた。
通路の壁の陰から様子を窺う。
部屋の奥、木彫りの歪な偶像の前で祭壇のような台に横たわるカーラの姿がある。
時折、身をよじるように動かすのを見ると、少なくとも死んではいないようだ。
そして、問題のゴブリン達はまさに酒盛りの最中だった。
数は20程。
予想通りだ……これは、勝てない……。
ほとんどは酒に酔い、寝ている者も何体かいるようだが、如何せん数が多い。
先制で、奴らが戦闘態勢をなんとか整える前に俺が倒せる自信があるのは5体程度だ。
そのあとは俺達が蹂躙されるだけだろう……。
所詮は戦闘に不慣れ(そもそも俺なんて非戦闘員だし!)な俺達では、戦闘態勢に入られたら勝ち目はない。
しかも、あちらには人質までいる。
サナを振り返り、一旦は戻ろうと声を掛けた。
だが、返事は意外なコトバだった。
「私、何とかします……」
相変わらず緊張と恐怖で震えているサナだが、目には覚悟の光が宿っていた。
その気持ちは買おう。
しかし残念だが、この状況ではどうしようもない。
サナもそれは理解しているはずだ。
だが、続ける。
「私、何とかします。出来るはずなんです。今、カーラさんを救わないと、手遅れになるかもしれない……!カーラさん、転生して行く当てのない私に良くしてくれた恩人……。絶対に助けるんです。」
気迫に押され、止める言葉が出ない。
「フェンリルの召喚を行えば何とかなるかもしれません。多分、できる……はずです。」
フェンリルを召喚?!
北欧神話に登場する神々の黄昏に解き放たれる魔狼、
神をも圧倒する力を持つ存在だ。
今まで魔法といってもビールを冷やす程度しか使ったことなどないサナに可能なのか?
「お願いします……カーラさんを助けたいんです……!」
いつの間にかサナの目には涙がうっすら浮かんでいる。
それを見た瞬間、意思とは関係なく右手が親指を立ててサナに向かって突き出し、目力を込めた視線を斜め45度の角度で送っていた。
あ〜、死ぬかもな、俺。
昔から女性の涙に弱いんだよな……特に美人の…。
サナの肩に掛かる重圧は大きい。
俺も援護射撃はするが、二発目は期待出来ない中で撃ち漏らしが多いことは俺達の死を意味する。
また、魔法の範囲が広過ぎてカーラを巻き込む危険もある
サナは俺達全員の命が預かっているんだ。
それでもサナは精神を集中させ、彼女にとって初めての、そして最大の魔法を行使しようとしている。
気が遠くなる程に長く、そして厳かな詠唱が進んでいく。
「……悠久の時を怨嗟に囚われし魔狼よ…その吐息は極寒の吹雪となり…」
なんだか冷気が漂い始めた……。
詠唱が進むごとに、周囲に冷気の靄が漂いはじめてきた。
「……その顎は冷徹な刃となりて傲慢なる古き支配者に楔を穿つ……」
ゴブリン達も異変に気付いたのかざわつきだし、8体ほどが落ちていた武器を拾ってこちらに歩いてくる。
残りも警戒しながら、辺りを窺っている。
「……その瞳は氷獄たる冥府の深淵よりなお昏く……」
冷気が地面から湧き上がり、パキパキと割れるような音まで空気中に響きだした。
勘弁してよ、スモークに効果音って……。
お願いだから静かに出てきてちょうだいよ、フェンリルさん……。
ゴブリン達は歩調を早めたようで、もうすぐ見つかるだろう。
ヤバイ……隠れるために歩かせてサナの集中を切らせるわけにはいかない。
だからといって、撃ち殺せば全てのゴブリンがすぐに殺到してくるだろう。
だが、仕方ない……もう見つかるギリギリまで引きつけて撃つしかない。
「……汝が呪われた定めに従い混沌と絶望を齎さん……」
サナの詠唱を背に俺は矢をつがえて引き絞る、あと3歩…そこが発見される限界だろう。
あと2歩…足が震える
あと1歩…神よ、祝福を!
次の瞬間、俺は部屋に飛びだして矢を放つ。
命中。
ゴブリンが倒れる。
即座に2発目。
命中。
ゴブリンが倒れる。
更に矢をつがえる。
……駄目だ、間に合わない……
目の前には剣を振りかぶったゴブリンがいた。
醜い顔を満面の笑みで更に醜く歪めている。
そして、剣が振り降ろされる。
極限まで活性化した脳がそうさせるのか、剣の切っ先がまるでスローモーションのようにゆっくりと俺の首目掛けてやってくるのが見える。
力強く狙い澄ました太刀筋だ、あれなら苦しまず死ねるだろう。
俺は他人事のように冷静な分析をしながら、死を受け入れるために目を閉じた。
「……終末の時は来たれり……フェンリル!!!」
ウォォォーーーン!!
洞窟中に響き渡るようなハウリングと共に、極冷の凍てつく嵐が俺の横で巻き上がるのを感じた。
再び俺が目を開けると、世界は変わっていた。
大気中の水分が凍ってダイヤモンドダストとなり、キラキラと炎の光を反射して輝く中、ゴブリンは勝利を確信した醜い笑みのまま彫像のように凍りついていた。
そして、俺が呆気に取られて佇んでいる前でゆっくりと地面に倒れ、まるでガラスのように砕けて無数の赤い破片となった。
更に目線を奥へ移すと、こちらへ向かって歩いていたゴブリン達も同じく凍りついている。
屹立するゴブリン達が一体、また一体と地面に倒れて赤い破片となってキラキラと輝いて散乱していく中を、悠然と歩む巨大な白銀の狼が見えた。
進む先には残りのゴブリン達が集まり、怯えながらも武器を構えているがまるで意に返していないようだ。
あれがフェンリル……
あまりの異常な事態にも関わらず、ただただ美しいと感じた。
加速するフェンリル
音もなく一瞬で駆け寄り、ゴブリン達はまるで紙屑のように千切られ、引き裂かれて辺りに散乱した。
そして、大気に溶けるように消え去っていった。
それらはほんの数秒。
ゴブリンは全滅していた。
魔力の消耗と緊張からの開放でへたり込むサナ。
俺はカーラに駆け寄り、助け起こす。
疲労と衰弱はあるが、怪我はない。
カーラの救出は成功したのだ。
俺達は暫し成功の喜びに浸り、帰途についていた。
小さな寝息をたててサナに抱きかかえられ、馬に乗るカーラ。
「本当に良かったです」
カーラを起こさないよう、抑えた声で続ける。
「フェンリルの召喚、使ったことないから不安だったんです。転生した時に神様が授けてくれたけど、正直強い力なんて、いらないって思ってました……。でも、大切な人を守れた。この力、困ってる人の為にもっと役立てるべきなのかもって思いました。」
少し照れたようなサラに俺は相槌の代わりに微笑みかける。
早く帰ろう。皆が待っている。
救出は成功した。
しかし、俺は何か違和感を感じていた。
なぜ残忍で好色なゴブリンがカーラにすぐに手をかけなかった?祭壇に捧げられた供物だから?
では、ゴブリン達が崇める神とは?
そして、サナが話したフェンリルをサナに与えた神とは?俺は転生時に神とやらに会っていない。単純にサナが幸運な転生者ってだけか?
まあ、今考えても仕方ないことだろう。
俺は考えを頭の片隅に押しやった。