006.空っぽの箱
006
僕は、部屋の中でグチャグチャに食い散らかされた《フク兄》と思しき腐乱死体を見た。
――なんていうことは勿論ない。部屋の中に《フク兄》の死体なんてなかったし、《ヒメ姉》の死体もなかったし、伸の死体もなかったし、ましてや僕の死体なんてあるはずもなかった。
だから僕が《フク兄》の部屋でなにを見てバケツを落としてしまったかということは、話し合うだけ無駄で、この場合にはだから、僕が何を見なかったのかについて言及するべきなのだ。
例えば部屋の中には机がなかったし、本棚もなかったし、椅子もなかったし、布団もなかったし、枕もなかったし、ロッカーもなかったし、ゴミ箱もなかったし、観葉植物もなかったし、カレンダーもなかったし、小物もなかったし、ポスターもなかったし、洒落たインテリアもなかったし、時計もなかった――生活や、時や、個が、《フク兄》の部屋の中には一切なかった。
何もない部屋。
空っぽの、箱みたいだった。
引っ越しのために荷造りを終えた後のような虚脱感と達成感のうち、虚脱感だけが僕の中に流れ込んでくる。これを誰かの部屋だと言ってしまうことに対しての拒絶反応が頭を駆け巡る、掻き巡る。
あったのは床と、壁と、窓と、天井と、元々取り付けられていたであろうコンセントだけで――それはもう、何もないと言って差し支えないだろう。まさか伸が言っていた《なんにもない》という言葉が、ここまで文字通りだったとは。
あまりに突然のことで、数分の間、僕は動くことができなかった。目の前の光景は見ただけで精神がやられてしまうというようなそれではなかったのだろうけれど、すっぱりと忘れて日常へと戻るにはやや難しい光景だった。昨晩伸が言っていた、《父親が付いていけなくなった理由》の一端を早くも垣間見た気がした。
「あらあらあら。ゲンちゃん、こりゃまたどうしたんだい!」という階下からの困ったような叔母さんの声で僕は我に返る。困ったような声をあげるものまぁ当然のことで、僕が零してしまったバケツの水は、既に階段を伝って一階にまで流れ落ちていた。
* * * * *
幸い、伸の言っていた通り――というか昨日話してみた通り、叔母さんはおらかな性格なので、バケツの水をぶちまけたことについては自分で掃除をすることでお許しを貰えたが、《フク兄》の部屋を勝手に見たことに関してはこってりとしぼられた。事故は良くても故意はだめらしい。当然か。
伸が入っていいと言ったから、なんていう理由を矢面に立たせればあっというまにサボテンになってしまうこと受けあいだったので、僕は素直にペコペコと頭を下げ続けた。彼女の言葉の後ろ盾はどうやら、僕が行動を起こした時点で自分に対する言い訳の材料として使いつくされてしまったらしい。
お説教も一段落ついて、僕は一階の食卓で叔母さんと向かい合うようにして座っていた。目の前には少し冷めてしまった昼食。なにをかくそう、先ほど叔母さんが階段の下まで来たのは僕に少し遅い昼食の完成を伝えるためだったのだ。
「冷めちまったけど、まぁ、食べな。食べない方が勿体ないからね」
叔母さんはさっきの事なんて気にも留めていないように僕に食事を促してくる。一度怒ったら数日は引き摺る母さんとは大違いだ。姉妹でここまで違うものなのか――いや、姉妹だからこそ、ここまで違うのだろう。姉妹二人して同じような性格だったら、毎日毎日、鏡を見ているようで気持ち悪いだろうから。
叔母さんは先に昼食をすませていたのか、机の上に肘をついて、目の前の僕に話しかけてくる。
「で、どう思った。フクの部屋を見て」
もうそのことについては聞かれないと思っていたので、食べていた焼きそばを喉に詰めかけた。コップに注がれた水をグイッと飲み干して、一旦箸を置く。《フク兄》のことを詳しく聞けるチャンスだと思ったからだ。叔母さんの顔を見る限り今までとは違う真剣な話のようだったし、同じ屋根の下で暮らすことになる人間のことを知って損ということはないだろう――未だに同じ屋根の下に入った覚えはないが。
「気持ち悪いって、うちの夫は言ってたよ。いや、元夫か」
そんな枕に続けて、叔母さんは《フク兄》のことについて話し始めた。




