059.捲土重来、あるいは
059
「じゃー、あたしは先に帰るね、ゲンちゃん」
夕焼け空を背負って、伸はそう言い置く。僕の隣には言売先輩の姿もある。
「気をつけて帰ってね。興味がわいたら、また来てよ」
伸の他に、幾人かの弓道部の生徒の後ろ姿が視界の端に映る。一日中弓を引いていたからだろう。そのどれもが肩で息をしているかのような足取りだった。その背中は様々であれ、地面に伸びる影はどれも似たように揺れている。
「流石に疲れたよね。僕も、腕が少し重いよ」
苦笑を漏らしつつ、言売先輩は弓道場の方へと向き直る。
「そう考えたら大したもんだよ、伸さんは」
才能があるのかもね。
そう言い残して弓道場の扉をくぐった彼の言葉に僕は首肯を返して、その後に続く。
その通りだった。まさに。
伸の《屈伸運動》らしさを、僕は今日の練習で目の当たりにした。というか、目撃しっぱなしだった。最初から最後まで。
所謂射法八節(この前言売先輩から聞いた)なんてものを、彼女が守るようなことは結局なかったけれども。その流れるような所作には、その場の誰もが目を瞠ったことだろうと思う。
なにせ今日初めて来たばかりの少女が、見るからに非力そうな体つきの少女が、試しにと手渡された弓をこともなげに引き切って見せたのだから。
傍から、はたしてこれを味わったことのない人にその衝撃を説明するのは難しいかもしれない。言売先輩の、滅多に見せない驚嘆の色が浮かんだ表情でどうにか納得してもらいたい、と言わざるを得ないだろう。
僕個人の感情で言えば、その光景は心ここにあらずなこの体を震わせられるものだった。感動と、恐怖で。
計り知れないほどの才能を持つ伸に対する感動と。
そんな《屈伸運動》を、よもやありえないにしても、映し取ってはしまわないかという恐怖で。
僕は弓を取り落としてしまっていた。
「悪いね。全然射させてあげられなかった上に、片付けまでお願いしちゃって」
今日の練習で折れたり曲がったりしてしまった弓や矢をまとめ上げ、抱えながら、言売先輩が申し訳なさそうに体勢を整える。
弓道場の長い廊下、弓具の倉庫へと向かう僕達の足取りは、最後の片付けを終えてどこか軽かったように思う。
「ああ、いいよいいよ、僕が拾うから。しゃがむのも億劫だろう」
そう言うと言売先輩は僕の取り落とした弓を――こっちは壊れていない束だ――一本、拾い上げる。
「それにしても、伸さんはセンスがあるよ」
カタリと弓を抱え直して、先輩は呟く。
「やっぱり、彼女にも入部してほしかったなあ」
やっぱり、という言葉に違和感を覚えながらも、僕はゆっくりとした足取りで倉庫へと歩を進める。
「いやさ、どこか違うと思っていたんだよ。僕は」
僕が一歩、二歩と歩みを進める毎に、その声は段々と遠ざかっていく。
ぎり。
「でもフられちゃってね」
たしかに、伸が弓道部に入部することはきっとないだろう。今日の仮入部を見ただけでも、彼女の、走ることだけに真っ直ぐな性格は――少なくともその片鱗は、言売先輩にも届いていたようだった。
ぎり。
ぎり。
「仕方ないよね、無理矢理うちに引きずり込む、なんてこともできないし」
言売先輩の声が遠ざかっていく。
「でも、さ」
ひょう。
僕の右足が跳ねた。
目の前の何かを突然蹴り上げたように、右足だけが前へと跳ね上がる。
咄嗟のことに僕は何が起きたかわからず、そのまま後ろへと倒れ込む。
ひょう?
抱えていた弓を巻き込みながら、僕の体は廊下の床へとたたきつけられる。弦に引っかかる腕の引きずられるような感覚に、すぐさま熱気と冷気とが入り交じる。
それはきっと、日も暮れて冷え切った床の冷たさと、鏃を生やした僕の脛の自己主張を繰り返す激しいうずきによるものだったに違いない。
何が何だかわからずに、僕は後方へと視線を向ける。
視線。
視線の先。
「なんで、お前なんだよ」
《残心》の姿勢を崩さずに、言売弓一が僕のことを見据えていた。




