058.委曲求全、あるいは
058
ふんふふんと鼻歌を奏でる伸の後に続いて、コンクリートを踏みしめる。段々と夏の気配が近づいてきていた。汗ばんだシャツが背中に張り付く。
「ゲンちゃん、ここはー?」
「左」
少しぶっきらぼうに返すのも、背負った荷物を思ってのことだった。着替えくらい自分で持てば良いものを。揚々と歩く足取りをジイと眺めると、小麦色に焼けたふくらはぎがどうしても目についてしまう。弓道部の仮入部に陸上部のユニフォームで来る奴があるか。
我を失わないように隙あらばブツブツと呟く僕の隣に、風下の姿は無い。他の部活の仮入部に行くとかなんとか言っていた。思い返してみれば、ああも熱心にあちこちへ顔を出して回っていたのだ――毎週毎週弓道部のために、わざわざこんなところまで出張ってくるのも難しいのだろう。
「シンがいるんだろう? だったら滅多なことにはならねえよ」
別れ際、そんなよくわからない太鼓判に背中を押されて、昨日の僕は学校を後にしたのだった。
「ここかな、ゲンちゃん」
歩を緩めた伸が見上げるのは《小川原弓道場》と書かれた古くさい看板。川という字は木目に隠れてほとんど読めない。「もう少しマシな板を選べば良かったのにな」と笑っていた風下の声を思い出す。
「たしかにな」
一週間と少し遅れの返事に首を捻る彼女をよそに、ガガラと扉を開ける。
* * * * *
すでに全員が揃っていたのだろう、顧問の山崎先生が弓道部員の前で何やら話している。右手に持つ鍵をチャリチャリと弄びながら、射法の基本的な注意を確認しているようだ。胸の前で弓を引くような仕草をしていた。その目の前でジッと座る部員の姿はなんだか、待てと告げられた小型犬のようにも見えた。
「おおい、遅刻かあ」
通りにくいダミ声を張り上げながら、山崎先生はこちらへ向き直る。よれたスリッパで道場の床をパタパタと踏みつける。
「すみません!」
上げ慣れない声を上げながら後ろに目を向ける。一足遅れて、靴下の伸が姿を見せる。
「まだいるのかあ」
山崎先生は頭をガリガリと掻きながら、やれやれといった風に弓道部員の方へと向き直る。一つ二つのやりとりの後、言売先輩がすっくと立ち上がった。他の部員達はそれを皮切りにして各々の準備を始める。
どうにかお許しが出た……みたいだった。
「どしたの、ゲンちゃん」
いつの間にか僕の隣には伸の姿。我関せずとでも言わんばかりの態度で彼女は微笑む。わざとやっているのだろうか。何かを言う気力も無く小さなため息をつく。良い性格してるぜ。
「おはよう。鏡君、に、伸さん」
隣に来た言売先輩がクイと眉をあげると、「はい、よろしくお願いします」と、柄にもなく敬語で、彼女は応えた。どうにか今日中に矢を打たせてもらおうと頑張っているのかもしれない。巻藁とかなんとかは面倒だから、最初から。そんな彼女の思惑が手に取れるようだった。
そしてそれは言売先輩にも同様だったようで、彼は苦笑めいた微笑みを伸へと向ける。
「あー、はは。そうだよね」
顎の辺りに手を添えて少し考えるようにしてから、彼は「じゃあ」と切り出す。
「あとでちょっとだけ、実際に射てみようか。僕はずっとは傍にはいられないけれど……隣には二百本分の先輩もいることだしね」
慣れた手つきで(目つきで?)僕にウインクしてみせると、彼は「弓具の場所も鏡君が知ってるからね」と言い残して、自分の練習へと戻っていく。
伸は最初から射られるのかよ。
らしくないとは思いつつも、歩いて行く彼の後ろ姿に囁くような愚痴を呟いて、僕は伸の方へと向き直る。
「よろしくね、先輩!」
……。
伸も伸でちゃっかりしている。思惑通りの回答に、彼女の顔は満面の笑みを湛えていた。




