057.万里一空、あるいは
057
「じゃー、あたしは先に帰るね、ゲンちゃん」
夕焼け空を背負って、伸はそう言い置く。僕の隣には言売先輩の姿もある。
「気をつけて帰ってね。興味がわいたら、また来てよ」
* * * * *
僕という個を保つため──弓道部への仮入部を選択した僕だったけれど、その成果は今のところ全くと言って良いほど上がっていなかった。それもそのはず……なのだろうか、今でも時偶疼く左腕を恨みがましく見遣ってから、僕は嘆息する。
《弓を通じて己とわかり合う》──この場合、《僕》とわかりあうということなのだろうけれど──なんていう芸当ができるのは、その腕が多少はマシになってからであろうということに、僕も風下も思い至っていなかったのだ。その日初めて触った弓や矢で己との会話がそうやすやすとできるくらいなら、そんなもの、無くたって自分を理解することもできるだろう。そもそも僕の腕は──文字通り左腕はまだ完調というわけでもないのだ。
傷つきたくない《僕》を立ち直らせるためにあえて傷つく道を選ぶべきだろうという風下の意見を採って、僕は今もまだ弓道部へと足を運んでいるが(仮入部というかたちに変わりはない)、それも、今のところは特筆して他の解決策も見当たらないから、という大した志もない考えに基づいたものでしかなかった。
仮に、他に何か、《僕》へ一石を投じてくれるものが現れたら、すぐにでもそちらへ飛びつく自信がある。
する必要の無い努力は当然、する必要が無いのだから。
皆、心の中ではわかっていることなのだ。口に出すことが憚られるというだけで。自己の存続がかかっている今、僕はそんな綺麗事を言っている場合ではなかった。
そんななりふり構わない僕は、なりふり構わないが故に真剣に弓道に取り組んでいた。他の解決策が見つかるかもしれないからと手を抜くようなことはしなかった。人との会話、なんていう他人にしてみれば当然の事で信じられないほど疲弊してはいたけれど、それも必死で割り切ろうとした。
そうでもしなければ、僕は。
* * * * *
ゲンちゃんおはよーっ、と、伸の元気な声が朝のシンとした空気の中響く。
「おはよう、シンちゃん」
この呼び方にも慣れてきたものだった。最初のうちは気恥ずかしさもあったけれど、割り切った。僕がどう感じていようとも《僕》はシンちゃんと呼ぶのを止めないのだろうから。
僕の隣、布団の空いたスペースに寝転がり、彼女は僕の背中をつつく。
「ほら、起きてー、今すぐ起きて、もう七時過ぎてるんだから」
「ああ、もうそんな時間か。わかった、すぐ降りるよ。先にご飯食べてて」
うんと元気よく返事をして、彼女はドタドタと階段を駆け下りていく。相変わらずせわしない。上半身をゆっくりと起こす。寝起きの気怠さを、腕を回してかき消して、「ああ、土曜日か」と呟く。




