055.朝令暮改、あるいは
055
「ごちそうさまでしたー」
ガタリと机を立ち上がって、伸はリビングの扉まで小走りしていく。
「ゲンちゃん! 話のお礼に、今日買ってきたお土産持ってきたげるからねー!」
「ちょっと、シン、まだゲンちゃん食べてる途中だろう。もう少ししてから……「良いじゃん別にー」
叔母さんの制止も無視して、彼女は階段をドタドタと駆け上がり、再び顔を覗かせた。
「じゃーん、今回は前のよりもーっと良いものだよー!」
熊の刺繍が入ったクッションを思い出して、苦笑が漏れる。もっと良いもの、とは……まぁ、十中八九、彼女の言う、良いものなのだろう。彼女の持つその紙袋から、大きなクマのぬいぐるみやタオルがでてきても全く不思議ではなかった。
せめて人目を気にせず使えるようなものだったら良いけれど……
そして――しかし、彼女が取り出したものは、僕の期待を――いや、予想を裏切るものだった。
――スニーカー? それも、ちゃんと履けそうなデザインの、だ。
「えへへー、かっこいいでしょ! 今日見てたら、ゲンちゃんに似合いそうなのがあったから買ってきたんだー。今度学校に行くときに履いてみてよ」
そう言って彼女は笑う――、じゃ、なくって。
いやいや、いやいやいや。
いや――いや、だから、違うのか。
僕はてっきり、彼女は並々一般の男子高校生に対する認識を全くもって持っていない、言うなれば、そう、たまに漫画に出てくるような勘違いの個性を、関知外の個性を持っている人間だと、それこそ才能を持つ者特有のものだと、僕は勝手に思っていたのだけれど。
「……ゲンちゃん、言い過ぎ」
靴を袋に仕舞うと、彼女はふくれっ面になって言う。
「あたしのことどう思ってるわけ? あーもう、そんなに言うならあのクッションあげなきゃ良かった……」
「だから言ったじゃないか、シン。あれは男の子には合わないって。部屋の端の方にほっぽかれてるの、見てなかったのかい?」
伸の怒ったような顔とは裏腹に、叔母さんは快活に笑う。その内容は全然快活じゃないけれど。むしろ陰湿だと言っても良いだろうけれど。
「仕方ないじゃん! あのときは良いなって思ったんだもん! それに、ちーちゃんが一生懸命に選んでくれたんだし……」
言って俯く彼女に、ちーちゃんって? と聞こうかと思ったけれど、やめておいた。どうせ僕が会ったことのない人だろうし、そんな人の話をされても相づちを打つのが精一杯だろうと思ったからだ。相づちを打つのはきっと、《僕》の専門分野と言って差し支えもないのだろうけれど、失礼の上塗りになるだけだろう。
休日、一緒に買い物に行くような仲の友達なのだから、いずれ会うことになるかもしれないし、そのときには謝ろう。
というか、その、ちーちゃん? が一生懸命に選んだのは多分僕のためじゃなくて伸のために、じゃないのだろうか。
「ともかく! 明日はこれ履いて学校行ってね! 約束だからね!」
ギュム、と袋を押しつけるようにしてから、彼女はぷいとそっぽを向いてしまう。
何か励まし(言い訳?)の言葉をかけようとして、《僕》に頼ってしまいそうになったけれど、すんでのところで首を振って思いとどまる。《僕》に甘えているばかりでは、こんな状況がいつまで続くかわかったものじゃないのだ。こういうところから、直していかなければならない。少なくとも、今は。
「……ごめん、伸、言い過ぎた、よ。この靴も、あのクッション、も、大切に、するから」
我ながらどうかと思う言葉で、伸が首をかしげたことにもなんの不思議もないくらいであったが、振り返った彼女が首をひねったのにはどうやら、別の意味があるようだった。
「伸……?」
彼女のその顔には、違和感のようなものが張り付いている。怪訝そうな、とまでは言わないまでも、不思議そうな。そんな顔が僕を見る。
しまった、《僕》は彼女のことを……たしか、「シン。シン、ちゃん」――だったか? そう、呼んでいたのだったか。僕のその言葉に、多少の引っかかりを残しつつも納得したように、彼女はまた向こうの方に向き直って続けた。どうやら合っていたようだ。
「わかってくれれば良いんだけど……今度はちゃんと本音だよね?」
「もち、ろん、だよ」
《僕》が下手に発言をしてしまわないうちに、僕は首肯する。
《僕》とわかり合って、共生していくうえで、《僕》を押さえつけて――強制して、矯正するような真似は決して褒められたことではないのだろうけれど、今この場の僕には、これくらいしか方法がない。少しでも、流されまいとする自分という者を常に持ち続けていないと、持ち続けていると《僕》に示しておかないと、いつ僕が《僕》に再び飲み込まれてしまうかもわかったものではないのだ。
もしそんなことになってしまえば、折姫さんに、風下に、示しが付かない。
さっき伸に手渡されてた袋をぎゅうと握る。僕は、僕として、明日もまた、道を踏みしてめていたい。
僕は、消えたくない。
ふと考えてしまった《僕》に、僕はいつも以上に死にゆく自分を恐れた。決して深くない日常の一風景にまで、《僕》というものが存在しているのだということを、なんとなしに実感してしまったかもしれない。
ちゃんと死ぬんだよ、ということ。
それが遠くの世界の何かしらなどではなく、身近に迫った、逼迫した事態であることを再認識する。
今はなんとか折姫さんのおかげで僕としての行動が許されているけれど、いつまでも彼女の庇護下で生活していくというわけにもいかないのだ。当然のことではあるのだが。
「じゃ、そんな感じで。おやすみ、ゲンちゃん」
その言葉に、ハッとさせられる。
今回は、本当にハッとした。
ハッとした。
つまり――僕が何も話さなくても、《僕》が話していた、ということ。僕の気づかない間に事態が進行しているということ。
《僕》自体が侵攻しているということ。
誰にとっても当然であること――何も話さなければ何も話されないということに対して、僕はあまりにも無頓着すぎる。《僕》の所為で、僕はすっかりそんな風になってしまっていたのだと、期せずしてまた、思い知らされる。
あふれ出しそうになる涙を隠しながら、「おやすみ、シンちゃん」と、僕は悪あがきのように呟いた。




