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僕の中にあなたはいますか  作者:
《3》迷鏡失墜
54/59

054.二律背反、あるいは




054


「ただいま」と僕は玄関の扉を開けて言う。

 外はもうとっぷりと日も落ちていて、伸も叔母さんも、すでに帰ってきているようだ。リビングからはテレビの音が聞こえていた。


「ゲンちゃんおかえりー、どうだった? 仮入部は」


 今朝の格好のまま、伸はアイスをかじりながら顔を覗かせる。まだ五月にさえなっていないというのに、最近は確かに蒸し暑い。

 僕は、思ったより大変だったよ、と返しながら、頼まれていた件も同時に報告する。聞いてくるのを忘れた、なんてことになれば、彼女がどんな手練手管で僕を痛めつけてこようかは(実際にそんなことをしてくるわけもないけれど)想像するだけでも恐ろしかったので、僕は言売先輩からの了承の旨を伝える。


「わかった、じゃあ来週は私も一緒に行くね。最寄りはどこなんだっけ?」


 実は右手に持っていたらしいアイスの袋を受け取る。結露が。

 駅名を告げると、ああ、あそこね、と言いながら、彼女はゆっくりと振り返り、リビングに戻る。


「あ、ゲンちゃん、もうすぐご飯だから、荷物置いたらお風呂入ってきてね。一番風呂をプレゼントだよ。」


 汗でグッショリと濡れた上着に気づいて、照れ隠しに笑った。


 * * * * * 


 夕飯は鯖の味噌漬けだった。それにお味噌汁と、お漬物の入ったタッパが机の上に置いてある。


「若者相手に悪いね、こんな食事じゃ精が付かないかもしれないけど――まあ美味しく焼けたよ」


 特にフォローもないままに食事が始まる。特に何を言おうとかほとんど考えていないのかもしれない。叔母さんらしいといえば、叔母さんらしくもあった。


「で、ゲンちゃん、今日はどんなことしたの? 弓打った? 道場の広さは? 的までどのくらい離れてるの? ちゃんと引っ張れた?」


 えーとあとは……と一旦質問を区切った伸に先を次がれる前に、僕はとりあえずと巻藁のことについて話す。あと、打つのは矢だ。

 面倒のように思えて、最も大事な基礎――その重要性は、あるいは僕や風下なんかよりも、彼女の方が理解していることだろう。


「ふーん、めんどくさいね。じゃあ今日は打てなかったんだー」


 あからさまに落胆したような()()をして、彼女は鯖を頬張った。

 理解していなかった。


 ――しかし、それはやはり当然のことで、僕が失念していたというだけのことだった。

 彼女が持つその《()()()()》の前に、基礎も基本もあったものではないだろう。彼女の健脚についてはこれまでさんざ見せつけられてきていたけれど、同様に見せつけられていることがあった。

 その(フォーム)の歪さだ。

 才能という不正を手にしている――足にしている彼女にとって、人々がこれまでの歴史で築き上げてきた、効率とか肉体への負担を考慮した型といったものは、邪魔とは言わないまでも不必要なものであろうことには全く疑いの余地がない。普段、そんなことはないのだが、全力で走っているときの彼女を見れば、誰しもがそう思うことだろう。あるいは、僕が今まで見てきたそれでさえも《()()()()》の全力かどうかはわからないが。

 めちゃくちゃ――早いだけではなく。そのまま、めちゃくちゃ、なのだ。

 毎日毎日元気に走っているところを見る限り、肉体への負担を全く考慮していないわけでもなさそうだが。

 その点については、言売先輩の()()とは正反対のようにも思えた。

 彼女がしているのはランニングではなく走ることであり。

 先輩がしているのは狩猟ではなく弓道である。

 効率と非効率と。追究と追求と。

 彼女と先輩とを引き合わせて、引き会わせても良いものなのだろうかと少し逡巡して、しかし、僕は杞憂だったと肩を竦めた。


 だって、先輩はそんな些細なことに興味を持ってなどいないのだから。

 そんな些細なことに興味を持っては、射ないのだから。




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