052.弓調馬服、あるいは
052
その矢は、まるで引き寄せられるように、惹き寄せられるかのように、真っ赤な的の中心へと向かう。
タンッと小気味のいい音と共に、周囲からは次々と感嘆の声が上がった。
百点満点。
「県大会の優勝者……は、やっぱり違うな。結構な距離あるぜ、ここ」
そんな中に混ざって声を漏らしたのは僕の左に正座する風下だ。自前の弓道着(なぜ持っている)を着て、僕の耳元で続ける。彼がそんな本格的なものを着てきてしまったおかげで、弓道場の中で僕だけがかなり浮いていた。嫌がらせなのだとしたらかなり手の込んだ嫌がらせだ。《たまたま家にあった》という彼の言葉がどこまで信用できるかは、僕には判断しかねる。
「俺達も撃たせてもらえたりすんのかな、矢。……あれ、矢って、撃つで良いんだっけ? 鏡君、知ってる?」
「《射る》って言う人が結構多いと思うけどね。僕の場合は打つとも撃つとも射るとも……特に一つに決めてはいないけれどね。重要なのは行為そのものであって、呼び名じゃあないんだし」
――あと、《射させる》とかって、結構言いづらいんだよね。言いながら、僕と風下の間にスッと影が差す。思わぬ助け船だった。
「あ……っはは……すみません」
目の前に立つ言売先輩に追従笑いを浮かべ、風下はしまったというような表情を浮かべる。咄嗟の時に取り繕うことができない性格なのだろう。いつもは飄々としたような彼の額にも、汗が浮かぶ。
「謝ることはないよ。足音や先生の声でかき消されちゃうから、ヒソヒソ話って意外と聞こえないもんだし。でも、うるさくしちゃまずいってわかってるのは良いことだよ。弓道の大会とかテレビで見たこと……ないか。フラッシュを焚いたりうるさくしたら射法妨害になっちゃうから、皆黙りこくってるんだよね。面白いから、機会があったら調べてみな」
言って先輩は、風下の左隣へ腰を下ろす。
「ところで風下、その弓道着は……新しく買ったの? 言ってくれれば、部室に使ってないやつがいっぱいあったのに。ここにも何着か置いてあるはずだけど……」
「ああ、その点についてはご心配なく、ですよ。うちの倉庫から持ってきたんです」
「はぁー、倉庫にねえ。誰か、弓道でもやってたの?」
「……はい、まぁ……そんな感じっすね」
先輩の言葉を濁すようにしながら、風下は立ち上がる。
「ところで先輩、僕達も、その、弓を引いたりできますかね? できれば先輩みたいに……」
「矢を射てみたい、かな?」
「……はい」
徐々に飛ばした探りを一気に吹き飛ばされて、風下は一瞬言葉に詰まりながらも首肯する。どさくさに紛れて僕も手を引かれ、彼の隣に立つ。
「はは、正直だね。まぁ、僕も《矢を打たせてあげるよ》って、君達を誘ったわけだし――こんな休日に連れ出しておいて嘘をついていたのかって思われても嫌だからね……いいよ。打たせてあげよう」
風下の肩が僕にぶつかる。きっとわざとだ。手柄を立てたことを自慢したいのかもしれなかった。
「でも、一つ条件があるよ」
* * * * *
「これは……」
弓道場の奥の部屋。舞う埃に目を細めながら、部屋の中を見渡す。体育館倉庫のような匂いが鼻を刺した。広さはしかし、学校の教室くらいある。正面には、さっき先輩が言っていたように弓道着が何着か畳まれて置いてある。《使用した場合は責任者が数量を申告のうえ――》
左の壁際には弓矢が置かれていた。使っていない物なのか、どこか壊れてしまっているのか、雑な印象を受ける。
そんな中、先輩が立っているのは、なにやら稲? 草? を集めたような物の前で……えっと、あれはなんだろう。
「巻藁っていうんだけど、聞いたことはないかな。藁を合わせて巻いた物なんだ。そのままだよね」
これはこうやって――言いながら先輩はそれの前で矢をつがえ、弓を引く。
ドズンという音と共に、先輩の放った矢は巻藁に突き刺さる。相当きつく巻いてあるのか、打ち込んだ矢が突き抜けてしまうことはなさそうだった。
「ま、簡単に言えば射撃練習っていうだけなんだけどね。初心者じゃああの的に当てるのは……どころか、的まで飛ばすことすら難しいだろうから、これで練習して貰おうってわけ。これまでもゴム弓とかで射型は学んできたけれど……練習と実践はやっぱり違うからね。つまんないと思うけど、必要なことなんだ」
風下に弓を預け、先輩は扉に手をかける。
「二百本くらい射たら、声をかけてくれるかな。僕は他の一年生もみてこなくちゃいけないからね」
「……わかりました」
うわずった声で、風下は答えた。




