051.忘恩負義、あるいは
051
零歳児の一年間は人生の一分の一。
一歳児の一年間は人生の二分の一。
つまり十五歳の僕が過ごすこの時間は、人生の十六分の一ということになる。
年々、《一年》が早くなるのも、頷ける話だった――
目を覚ました。
真っ先に目に入るのは天井だ。
顔に纏わり付く生温い空気で、咄嗟に、今は朝の九時頃だろうとあたりをつける。そう思った途端になんとも言えない気怠い感覚が全身を包んだ。
土曜日、だった。
* * * * *
「……おはようゲンちゃん」
「おー、おはようさん、ゲンちゃん」
寝間着姿で一階に降りると、すでに外行きの洋服に着替えた伸と叔母さんとが朝食を食べているところだった。不機嫌そうにシリアルをジッと見てグチャグチャとかき混ぜる伸に、あんまり柔らかくするとまずくなるよと叔母さんが注意する。
そんな声が聞こえているのかいないのか、伸はスプーンをカツカツと鳴らしながら皿をかき混ぜる。明らかに不機嫌そうだった。
それもそのはずで、彼女は朝に弱いのだ。語弊の無いように言えば、走れない朝に弱いのだ。早朝のうちから町内を一周して、シャワーを浴びてサッパリしないと気が済まない。己に付随する問題をどうにかこうにか解決しようとしてまで、陸上部に固執する彼女の《走り好き》は最早常軌を逸しているのだ。
走り過ぎ――なのだ。
走りに固執するあまり、走る自分の首を否応なく絞めてしまう、そんな矛盾を孕んでいる。
昨晩まではどれを着ていこうか、何を買おうかと嬉しそうにうんうん唸っていた彼女だったが、一度《走れない》となるとこの有様なのだ。何も今日が特別というわけでもないのだろう。以前の土日にも一度、同じ場面に遭遇していた。
そしてそうだ、今日は二人とも確かミズノエに……
「えっと、朝は良いって言ってたから用意してないけど……大丈夫だったかい? 今からでも軽く何か作ろうか?」
叔母さんからのありがたい申し出だったが、遠慮させてもらうことにした。料理中に服を汚してしまっては悪いだろう。
「あ、そっか、ゲンちゃんは今日弓道部でどっかに行くんだっけ」
ぐじゅぐじゅになってしまったシリアルをマズそうに飲み込んでから、伸は僕を見る。言わんこっちゃない。いや、僕はなにも言ってないけれど。
「弓道……弓道ねえ。そういえば、なーんでゲンちゃんが弓道を始めたいって言い出したのか、まだわかってないんだよねー……」
一瞬、固まってしまう。また、僕が弓道部に行く理由を聞かれてしまうのはマズい。彼女も叔母さんも、答えたがらない僕に無理に回答を求めるようなことはしないだろうけれど、その《違和感》は少なからず彼女らの内に残ってしまうことだろう。
今はまだばれていない《僕》の件が、そう遠くない未来――まだそのことについて言うべきでないときにばれてしまえば、本末転倒だ。
「あたしもやってみれば、わかるのかな、弓道……」
と、予想に反してそんなことを言って彼女は、宙で弓を引くようにする。そんな伸の姿を見て、叔母さんはふと思い出したように口を開いた。
「……そういえばシン、あんた昔に一度、弓道に誘われたことがあったねえ」
「ええ? そんなことあったっけ? ……誰に誘われたんだっけ?」
「知らないよ。実際に会ったわけでもないんだからね。あんたが言ってたってだけさ。学校で誘われちゃった、とか言ってたじゃないか。たしか……っていうか、多分間違いなく、中学の頃だったろうね。あんたの通ってた小学校に弓道部なんかなかったわけだし」
「……? 別に中学の時も無かったよ。弓道部なんて」
「あら、そうだったかい? じゃあ、なんだったんだろうね……思い違い、だとは思えないんだけど」
不思議そうにする叔母さんをよそに、残っていたシリアルをかきこんで、伸は椅子を引く。
「ごちそうさまでした」
そろそろ出ない? 彼女はそう続けた。見ると時計はすでに九時半を指している。ああ、僕も風下との待ち合わせがあるのだった。着替えてこなければならない。
楽しんできてください、とかなんとか、《僕》は多分無難なことを言って、自分の部屋へと戻る。
ふと、階下から伸の声。
「ゲンちゃーん!」
……
「ゲンちゃーん?」
「っ……は、はーい!」
自分がうっかりしていたことに気付く。誰とも向き合っていないが故に誰のことも現す事のできない今は僕自身が話さなくてはならないのだ。
……未だに、《僕》には慣れない。意識して大きめの声を出すのには、特に。ヘッドフォンをつけたままでは自分の声の大きさが上手く調節できないような、二日三日家に閉じこもっていたというだけで、咄嗟の時に声が出なかったりするような――後者については僕との類似点がありすぎるが――そんな風な感覚。
「覚えてたら、でいいんだけどさー、今度私も弓道部に行けないか、聞いておいてくれないかなー?」
彼女がしてきたのは、そんなお願いだった。弓道、その言葉に、その何かに、何か思うところでもあったのだろうか。
勿論断る理由も無かったので、僕はぎこちなく「わ、かったよー!」と返す。
僕のその答えに、彼女が微笑んだような気がした。
「ありがとう! じゃあ、ゲンちゃん、今日は頑張ってきてね! また前みたいにお土産買ってきてあげるからねー!」
いらない。




