048.悪戯電話、あるいは
048
「ほら、できたよ!」
威勢の良い叔母さんのかけ声と共に大皿に乗せられた麻婆豆腐が食卓に置かれる。
「シンー! 降りてきなー!」
「はーい」
伸の声はそのままリビングの扉を開けた。
「はいはーい……ああ、ゲンちゃんおかえりー。今日は遅かったんだね」
多分《僕》はそれに返事をして、二人で食卓に着く。
「たしかにそうだね、なんかあったのかい? もしかして、また喧嘩でもしたかい?」
「ええっ、そうなの!? ゲンちゃん!?」
叔母さんの冗談を本気にした伸は座ったばかりの椅子を後ろへ飛ばしながら、思い切り立ち上がった。机の上の諸々がガチャンと音を立てる。そんなことないよと《僕》は彼女を宥めて席に着かせる。そしてそのまま、実は仮入部に行っていたんだよと訳を話した。
「へぇ、仮入部ねぇ? 中学校の頃は帰宅部だったって姉さんからは聞いていたけど……どういう風の吹き回しだい?」
叔母さんは僕のご飯茶碗にドバドバと麻婆豆腐を入れてくれる。
流石にその質問に対して真実をそのまま口に出すのは憚られた。伸もそうだが、勿論叔母さんも、《僕》の件について巻き込むべきではない。
それは一つに、当然、彼女らに迷惑をかけたくないというのが一つある。
しかし、また一つ、下手に動かれて《僕》の一件が拗れてしまうのではないか、もっと面倒くさい事になってしまうのではないかという思いがあることも否めなかった。
不意に垣間見えた自己中心的な僕の性格に、少し嫌気がさしてしまう。僕はこんな僕を取り戻そうとしているのかと、自分のしていることに自信が持てなくなる。そしてきっと――そう、僕がこんな僕であったからこそ、《僕》が生まれてしまったのかもしれない、と微かに思った。
「――てる? ゲンちゃん?」
ふと顔を上げると、正面の席から身を乗り出して僕の顔をのぞき込んでいた伸と目が合った。
「どうしたんだい、ゲンちゃん、ボーッとして……冷めちまうよ?」
「もー、聞いてなかったの? じゃあもいっかい言うけど、今週末、皆でミズノエに行こうよ!」
――ミズノエ?
* * * * *
僕が住む町には、全国ありとあらゆるものを無理矢理に詰め込みましたと言わんばかりの総合デパートがある。屈家から徒歩で行くには少し遠いが(伸が本気を出せば五分とかからずに着いてしまうのだろうけれど)、最寄り駅から三駅行ったところに、その広大な土地は広がっている。
名前を《ミズノエ》という。全国に展開しているわけではないがその分一極集中的に、辺り一帯の商店街や量販店を食い潰すように、数年前に建設されたらしい。食料品から衣服、家電、本などが手に入るのはもちろんのこと、映画館や各種の店舗なども、所狭しと肩を並べている。
* * * * *
「前にゲンちゃんにあげたクッションとかも、そこで買ったんだよー」伸は言う。当然、入学式の前日に貰ったあのクッションのことだろう。あの大きな熊の刺繍がなんだか気恥ずかしくて、部屋の隅に隠すように置いたままになっていることを思い出した。風下や折姫さんに見つからなくてよかった。
「今日走ってたら、シューズが壊れちゃってさあ、新しいの買わなきゃなんだよねー」
少し眉を顰めて彼女は顎に手を当てる。思いのほか真剣に悩んでいるようだった。ランニングシューズが壊れるというのがどういう状態を表しているのかはいまいちピンとこなかったが、それが彼女にとっていかに深刻な問題かは、僕にでもわかった。
それにしても、シューズを壊してしまう彼女ならば、予備の一つや二つは持っていそうなものだったが――「いやー、二週間で三足も壊れちゃうとは思ってなかった」
過ぎた心配だった。いろんな意味で。
でもしかし、と僕は思い至る。今日の帰り際、言売先輩から今週末のことについて聞いていたのだった。
――《週末は近くの弓道場を借りて練習することになっているんだ。あと四日あるから、しっかり練習すれば、本物の矢を打たせてあげられるかもしれない。一番弱い弓だけどね》――
僕達を弓道部に勧誘する甘い誘い文句であるだろうということはわかっていたが、わかってはいても、僕はその言葉に飛びつかざるを得なかった。《弓を引くことで自分を見つける》――言売先輩の言ったその言葉が真実なのだとしたら、僕は僕のために、きっと一度は弓を引くべきなのだろうから。
やれることはやっておくべきだろう。
「いや、ごめん。週末は、予定が、あるんだ」
だからこそ僕は、ここで口を開いた。《僕》の口からではなく僕の口から、どうにか言葉を絞り出す。僕としての会話はだんだんと慣れてきたとはいえ、話し終えると、嫌な疲労感が頭の奥の方に残った。折姫さんの《屈折》は問題なく機能しているようで、伸が不思議そうな顔で「そうなの?」と、体を席に戻す。彼女からすればいつもの《僕》ではない誰かが喋ったように聞こえただろう、その微妙に呆けた顔も頷けた。
「どこに行く予定なの? って、ゲンちゃん遊びに行く友達とかできたんだね」
失礼なことを言いつつ、彼女はごちそうさまでしたと茶碗を流し台へと持って行く。それに続くかたちで、僕も食事を終えた。
叔母さんがお茶を淹れてくれるというので厚意に甘える。
「遊びとかじゃなくて、仮入部、だよ。今日も、行ってたんだけど。弓道部の練習に、混ぜてもらえる、ことになったんだ」
「へえ、ゲンちゃんが行ってたのって弓道部だったんだ。なんか意外かも」
「たしかにそうだね。なんでまた弓道部なんだい?」
はいお茶、と差し出された湯飲みを傾ける。
しまったと思う。僕はやってしまったと思う。さっきも一度同じような質問をされただけに、今回も切り抜けられるかどうかはわからなかった。
――リリリリンと、電話が鳴った。
「はいはい、私が出るよ」
こんな時間に一体誰だろうねとぼやきながら、叔母さんが電話機の方へ向かう。この家の固定電話はリビングを出てすぐ隣の小さな本棚の上に置いてある。
僕は息をついた。伸は相変わらずせっついてきたが、相手が二人から一人になっただけで、随分と気が楽になった。
叔母さんは二三言話して、一分もしないうちにリビングへと戻ってくると、なにやら思案げな顔で、入り口近くの壁に背を預けた。
「ママ、誰からだった? 明日の仕事についてとか? あ、もしかしてゲンちゃんのお母さんからの電話とか? ……ママ?」
伸の不安げな声で、叔母さんは我に返ったように「あー、なんだい?」と聞き返す。
「だから、誰からだったの?」
「ああ、悪戯電話だったよ」
「ああそう。なんて言ってた? オレだよ、オレオレ! とか?」
あははーと軽く笑うと、伸は湯飲みを流し台に置き、二階へ上がろうとリビングの扉に手をかける。弓道部についての興味は、もう薄れてしまったようだった。移り気な性格だと思う。
「そういえば明日からは陸上部の朝練に出ることになったから、六時半には家を出なきゃいけないんだ。とりあえず朝ご飯は要らないからねー。じゃ、おやすみー」
言うと彼女はドタドタと階段を駆け上る。いつもなら聞こえてくるはずの《静かに上りな》という叔母さんの小言は、今日は無かった。
その代わりと言わんばかりに、二階から伸の声が響いてくる。
「そういえばゲンちゃんも明日早いんだから! 早く寝てよー!」
……僕も彼女と一緒に登校させられるようだった。




