047.感情移入、あるいは
047
「決まりだな。俺と一緒に仮入部行こうぜ。今日は手始めに弓道部だ」
という、極めて自然な流れを経て、僕と風下は弓道部の仮入部へと訪れることになった。何かおかしい気もしたが、気のせいだろう。気を晴らすために運動! 仮入部に行こう! とりあえず目についた弓道部だ! という発想ではないと願いたい。
あながち否定できないのが悲しいばかりだった。
僕たちが通う私立楽園学園には、武道館が存在しない。体育館とプール、そして三つの校舎が建つだけで、そこそこの敷地を食ってしまうのだ。余り物のような校庭では運動部の生徒達が所狭しと部活動を行っている――と思っていたのだけれど。
学校の校門を出、少し行った辺りで風下は歩を止めた。
「ここみたいだな」
* * * * *
「中々筋が良いじゃないか。君なんか背筋もピシッとしているし……鍛えれば相当上達すると思うよ」
風下の腰の辺りに手を当ててそう言ったのは、弓道部に所属する言売という先輩だ。《言葉を売る》と書いて、コトウリと読むらしい。身長は僕より高いくらいで、髪は短く切りそろえられている。身長の割に顔が小さく、胴着がよく似合っていた。
「君も……うん、なかなかいいね」
僕に対してはそう言って、彼は他の部員の元へと歩いて行く。その眉が少し顰まったのは、きっと気のせいではないのだろう。筋が良いと評した風下と《僕》とのフォームは、きっとほとんどが同じものになっているだろうからだ。なにかアドバイスをしようにも、一度言った言葉を重ねるだけになってしまう。
もしくは今更仮入部員として訪れた僕達を疎ましく思っているのかもしれなかった。見れば僕達以外(多分部員)は僕たちのような学生ズボンではなく、袴姿で本物の弓を使って練習をしている。入学からすでに二週間が経っているのだ。少し遅めの仮入部であることに間違いはなかろう。
「まだ矢を射るような段階じゃあ全然無いんだけれどね。基礎基本は何よりも大事なものだから、時間をかけてゆっくりと習得していくんだよ。君達も、だから今のうちに入れば他の部員と同じような練習に参加できるよ」
いつの間にか戻ってきた言売先輩は、風下と話していた。
「いやぁ、まだ結構悩んでる途中で……」
風下は笑顔を浮かべて、チラリと僕の方を見る。《いやぁこいつの中にこいつとは違った別の奴がいて、そいつをどうこうするために、とりあえず仮入部に来たんですよ》なんていうことを、初対面の相手に言えるわけがない。信じてくれるわけもない。
ふと、言売さんは僕と風下とを見比べて、言う。
「なんだか、のっぴきならない事情があるみたいだね」
――!
僕は咄嗟に目をそらしてしまう。
風下も驚いたらしく、少し言葉に詰まってから、「言売先輩って、珍しい名字ですよね。ことうり、だなんて、初めて聞きましたもん」と話をそらした。
先輩は再び僕と風下とを見比べて、なにか納得したように、なにかを諦めたように、口を開いた。
「ああ、僕もそう思うよ。そう思うし、そう思わないといけない」
「そう思わないと、いけない?」
「少しだけ、長くなるんだけど、いいかな」――そんな風に、言売先輩は話し始めた。
「《言売》っていう名字は元々母さんの家のものでね。つまりは父さんが母さんの実家に婿入りしたかたちになる。それくらいならば珍しくないけれど、その父さんっていうのは、僕の母さんの従兄弟なんだ。つまりはかなりの近親婚ってことになるね」
「平安時代みたいですね」
風下は珍しく、言葉を選ぶようにして、慎重にしゃべっているようだった。
「はは、そうだね。でも昔ならともかく、この国では近親婚は認められていない。母さんは僕っていう跡継ぎが欲しかったんだ」
「跡継ぎっていうと……なにかの家元、とか?」
「たしかに実家は弓道の教室をやっていたけど、小さいものだったよ。だから母さんが残したかったのは、この《名字》だったんだろうね」
彼は肩を竦めると、「たかが名字のためにって思うよね」と続けた。
「母さんも子供の頃から弓道をやっててさ――僕もね――それで、《言売》っていう名字を誇りに思っていたらしいんだ。言葉を売るって書くだろう? 《弓道家には言葉は要らない。弓を通して己とわかり合うのみ》って、子供の頃からよく言われてきたんだよ。それで、友達も作る必要が無いとか言われたんだ。小学生の頃に母さんと父さんとが親戚同士だってことが友達にばれちゃって、案の定友達はできなかったんだけど――というかいじめられていたんだけど、言葉を交わす必要が無いという意味で、母さんにとってはそれも好都合だったのかもしれないね」
「……ひどい親ですね」
「……うん、まぁでも大人っていうのは勝手なものだからね」
先輩は風下の顔をじっと見つめる。
「むしろ勝手でなければ大人でないとさえ言えるだろう。今はよくなった方だろうさ。昔なんてもっとひどかったんだろうから。第一子に女の子が生まれてしまったからと、その子に対して酷く差別的な扱いをしたり。できの悪い長男をいなかったことにしてできの良い次男に期待したり。親にとっての子供なんていうのは、《家柄》や《家名》を――僕の場合は《名字》を、守るための道具みたいなものなんだろうね」
言売先輩は風下に同情のような眼差しを向ける。
「誰でも――例えば君だって」
彼はすぐに視線を戻すと、風下が使っていたゴム弓をその手に持つ。
「でも今ではそんなに恨んでいたりはしないんだ。他人と話さなかった小学校時代は自分を理解するための時間として有効に使えたし。唯一の特技だった弓道も、そこそこに上達できた――今度全国大会に出る予定なんだ。春の県大会で幸いにも優勝できたからね。どれもこれもが《言売》のおかげとは言えないけれどそれでも――少しは感謝しているんだよ。この名字に、そして母さんに」
言いながら彼はゴム弓を引いて、放す。
美しいフォームだった。
これまでに何千、何万と繰り返してきた型なのだろう。体が覚えているとでも言わんばかりに、彼の放った弦はまっすぐに進んでいった。少なくとも僕がその領域に到達することはないだろうと言えるほどに。
「――よかったんですか?」
言売先輩の言葉の切れ目に、風下がポツリと呟いた。
「そんな、家族内の秘密みたいなことを、俺達みたいな――そもそも初対面なのに」
「お互い様、だよ。わかるだろう?」
遮る言葉と共に風下の肩に手のひらが置かれる。
「さて、もうそろそろ今日の練習は終わる。一年生は帰る時間だ」
気づけばもう結構な時間が過ぎていた。西日が窓に突き刺さり、部屋の中を真っ赤に染めている。
「――《自分》っていうものを見失った時には、弓を引くといい。僕は今までそうやってきたし、ほとんどの場合、僕は僕を見つけられたよ。……なんてね。なんにせよ、興味が湧いたらまた明日来てみてほしい」
風下が弓道部に行こうと言った理由が、なんとなくわかった気がした。




