046.自己犠牲、あるいは
046
正面の壁に《鍛錬》と書かれた板が飾られている。
階下からは「イヤーッ!」という大声。直後に竹刀のぶつかり合う音。
さらにそれよりも低く重い、ドシンドシンという音も聞こえてくる。
《僕》は正面の風下を現している。彼も僕と同じように《鍛錬》の文字が見えるように立っている。彼の性格は、どちらかというとその言葉には似合わなそうだった。
視線を左に移すと二重の円が目に入る。的の代わりだった。ゴムを持った両手を軽くあげ、右手を固定し、ゴムを伸ばすように左手をグググと押す。それに続けて右手も引いていく。床に平行に、ゆっくりと。そのままだんだんとゴムを下げ、胸の前で停止させる。
僕は的の中心をキッと見つめて、右手を放す。風下も同じタイミングでゴムを放した。
ビイインという残響が腕から伝わってくる。
…………
* * * * *
「俺さ、《鏡君》の件について一晩考えてみたんだけどよ。気を滅入らせるのが一番駄目だと思うんだよな。傷つきたくない《鏡君》をそのままにしてたらつけあがるばっかりだぜ。痛みに慣れるには痛みしかないと、俺は思うんだよな」
そんな風に、放課後の教室で風下は《僕》についての対策を話した。
いや、対策ではなく――だから、わかり合うための方法、だ。
しかしその考えに、僕はすぐさま賛同することはできなかった。その案に――そのわかりあいのために僕が傷つかねばならないというのならば、やはりおいそれと鵜呑みにすることはできない。
折姫さんが危惧していた可能性。僕が傷ついたときに、《僕》の存在理由に反する僕という存在が《僕》によって消されてしまう――そんな可能性だ。
「ああ、わかってる。だから勿論、馴らすためで、慣れるためだ。生徒からの信頼厚い熱血教師が愛のこもった平手を食らわせるのはそれが生徒のためだと思っているからだ。生徒の精神をたたき直すために肉体を打ちのめしていたら、本末転倒だからな。そこで生徒を殺してしまったら、その教師はもう教師じゃねえ。言い方を変えれば、いくら友達のためとはいっても、その友達を不幸にしていたら意味が無いって話だがよ……聞いていりゃそらそうだろうっていう話かもしれないけれど、現実はそう上手くいかないものだからな。自己犠牲が知らないうちに自己満足になっていることだって、往々にしてあることだ」
ノーの時みたいに。彼は寂しげに呟き、目を伏せた。
「だけど」
彼は顔を上げ、続ける。
「今回の、《鏡君》の件に関しては前例がある。それはあいつの方法では実行できない策だ」
あいつ、というのは当然折姫さんのことだろう。
そして、前例……?
「その腕の傷だ。もうほとんど治ってるみたいだけどよ」
彼は僕の左腕を掴みあげる。
「同級生と結構な喧嘩になったって、一週間くらい前に言ってたよな? 《鏡君》が、だけど」
思い返すように、天井を見上げながら彼は言う。
「その件で鏡君が消えることはなかった――つまり、そこまでは大丈夫、というラインが引かれたんだ。交通事故で死ななかったんだから次のどんな交通事故でも無傷で生還できる、みたいな暴論だってことは百も承知してるがよ……これが今の俺が鏡君に対してできることなんだ」
彼の手が握手を求めるように差し出された。彼の提案した救いの手を取るかどうか――文字通り、手を取るかどうか、僕はそれを聞かれているのだった。
僕はその手を振り払うことができない。
僕が消えてしまうというリスクを提示されたうえであっても、断ることができない。
それは、僕が一応のために、手段として、彼の助けをとっておきたいという感情とは少し違う気がした。なんとなしに見た彼の目には、《本当》が宿っている気がしたのだ。
自己犠牲が自己満足になってしまうかもしれないという過去を自分で理解した上で、僕を助けようと本当に思っているのだということが伝わってくる気がした。
榎さんを見たあとで、所謂《本当》というものに過敏になっているのかもしれなかったけれど。
僕は彼の手を、取った。




