045.経緯不明、あるいは
045
やめてくれ、という声が出なかったのは、僕が彼女に対して抱いている尊敬の念故だったのだろうか。
出所のわからない敬意だ。それが僕の胸の中に渦巻いている。
教室の前で彼女が話す言葉、その一つ一つを鑑みればそれはありきたりなことを言っているようにしか聞こえない。「鏡君と仲良くしよう」「昨日は皆も悪かった」「これから文化祭準備も始まるんだから、楽しい気持ちで続けていこう」……だが、その言葉の裏に途方もない慈しみの情があふれているような、聖母に囁かれているかのような、そんなイメージが、僕へと届いていた。おそらく、周囲に座るクラスメイト達にも同様に。始業前だというのに、誰も文句一つ漏らさずに彼女の演説に聞き入っている。下手をすれば、一番不真面目な聴衆は当事者である僕なのかもしれない。それほどに。
何が僕たちをこうさせるのだろう。何が彼女をこうさせたのだろう。
彼女の姿は、明らかに普通ではない。異常だ。
《サイノウは全ての人間が持っているものである》
折姫さんが言っていたそんな言葉を連想せずにはいられなかった。
これが彼女の才能なのだと、思わずにはいられない。
彼女が本気を出せば国の一つや二つ、簡単に落とせてしまうような、そんな気がした。
* * * * *
彼女のお言葉のおかげで、その日が終わる頃には、クラスメイト全員が、僕に対して抱いていた誤解を溶かしていた。
「よそよそしくしちゃってごめんね」
「昨日は俺もうるさくしちまって、ごめんな」
「私も静かにしてって言おうとしてたんだけど……言うのと言おうとするのじゃ全然違うよね。ありがとう」
「僕も鏡君みたいになれるように頑張るよ!」
帰り際に、クラスメイトが何人か、そんな風なことを言い残して帰って行った。
人間が一日でこうも変わるものなのかと、驚いて、戦いた。
「人間ってのは即物的で俗物的だからな――榎みたいなちょっと外れた奴には、すぐ感化されちまうんだろうな」
最後に声をかけてきたのは、今度こそ風下だった。もう教室には僕と彼しか残っていない。
「あいつは昔っからそうだったんだよ。俺が直接知ってるのは中学校の時だな。自殺まで考えていた女の子を説得して、いじめっ子の女子と仲直りさせたらしい――そのいじめていじめられた二人は今や大親友になっている――おかしな話だよな。そこに介入したのは暴力でも金でも大人でもなく、たったひとつ。あいつの声だけだったんだから」
声――やはり、彼女の声には何か特別な力があるようだった。周りの人間を従えるようなカリスマ性、とでも言えば良いのだろうか。
「カリスマ性とか、しゃべりの上手さとかじゃないんだよな、あいつが持ってるのは。あえて言えばひたむきさ――か。上手くは言えねえけどよ。《誠意を持って話す》っていう理想論を現実にしたような奴なんだ。あいつに語りかけられるとさ、人を許したくなっちまうんだよな」
許したくなる――今回もその例に漏れず、クラスの皆は僕のことを許した?
「いや違うか、俺の推測をあえて言葉にすれば、《人の善意をかき立てる才能》ってところか。本当に才能といって差し支えない――俺の勘なんかとは全然桁が違う。善意をかき立てる――つまり本当にしたくないと思っていることを促すことはできないんだ。昨日のことにしても、きっとクラスの奴らだってきっとうるさくして申し訳ないと少しは思っていたんだろうってことだ。鏡君、だからクラスの何人かが君に謝ってきたことに関して、気に病んだりはしなくて良いんだぜ。皆心のどこかでそれを望んでいたんだ。そして中学生のいじめっ子も、本当は心のどこかで申し訳なさを感じていた……」
ああ――と、僕は納得した。僕が彼女に対して抱いていた敬意の理由を。
僕は彼女の《本当さ》に憧れていたんだ。一目見てもわからない、その精神性に。
本当が無い僕だから。
鏡で身を固めてしまった僕だからこそ。
彼女は、僕を惹き付けたのだ。




