044.記憶障害、あるいは
044
ああまたか、と思った。
二週間と少し前、ここに引っ越してきてすぐの頃に降ってきた違和感。
なにかがおかしい。なにかがズレている。そんな感覚。僕の耳にだけ聞こえたあの《声》は、なんだったのだろう。
異常への解決策、という一時の気休めのために鈍っていた僕の常識のようなものが、頭の中で警告音を鳴らしている。差異能という一応の定義では、それを抑えることはできない。喉の奥の方が熱くなって、嗚咽を漏らしたくなる。
ノー――伏郎さんの時に感じた異常。
折姫さんの時に思い知った異常。
そして《僕》の時に痛感させられた異常。
そして――そして? そして……なんだ? 今僕は何を続けようとした?
「おはよう鏡君、昨日はありがとうね」
僕の思考は、今度は風下によって中断させられる。俯く僕の視界に彼の影が差す。見なくてもわかる。どころか声を聞かなくたってわかる。今の教室で僕に近づいてくる人間なんて、彼くらいしか考えられないのだから。
教室に入ったときにチラと周囲を見渡すと、いくつかのグループが教卓の周りで話している姿が目に映った。むこうもこちらを伺っていたようで、僕と目が合うと気まずそうに目をそらされた。腫れ物のように見られているのだと、僕でもわかった。昨日の教室にいた誰もが――風下を除いて――同じように考えていることだろう。
こんな状況は、僕が《僕》であったなら起きえなかった状況ともいえた。僕が僕として勝手に行動したせいで、周囲に迷惑をかけた――ひいては僕が、迷惑を被った。元々、僕はこういうことを防ぐために、《僕》を作り出したのだ。だからそれに抗ってこうなるのは、至極当然のことともいえた。
そして僕がしようとしていることには――いずれ《僕》とわかり合い、ともに歩むためには、こんな迷惑を受ける覚悟が必要となるのは目に見えている。
己を保つために、傷つく覚悟が必要だというのもおかしな話だと思う。
それは、傷つかないために己を蔑ろにしたことの代償なのかもしれなかった。
「鏡君?」
肩をツンツンと突かれ、僕は顔を上げた。
――ツンツン?
はて、風下は僕に向かってそんなにかわいらしい起こし方をするだろうか?
「あ、起きてた。鏡君、昨日はありがとう。開口君から聞いたんだけど、騒がしかったクラスを一声で鎮めてくれたんだって? 本当は開口君とか私の役目なんだけど、押しつけたみたいになっちゃって、ごめんね」
目の前に立っていたのは、一年C組の委員長(あるいは書記)、榎 夏木だった。
「あ、ごめん」と、僕は《僕》を無視するように言葉をひねり出す。
瞬間的に、彼女という人間を他の誰かと間違えてしまったことに深い罪悪の念を抱いていたのだと直感できた。僕は目の前の彼女に、深い尊敬の念を抱いているのだ、とも。やはりクラス会長の席にふさわしいのは彼女だったようだ。今更だが。
「なんで鏡君が謝るのよ。今回のことで非があるのは運営側だったんだから……欠席していた私が一番の悪者ね」
お縄にかかったように、彼女は自分の両手首を軽くぶつけ、そしてそのまま両手のひらを合わせる。
「だから今日は鏡君の誤解を解こうと思って! 心配しないでね。ちゃんと説明すれば、皆もわかってくれると思うから!」
そう一方的に話を切り上げて、彼女は黒板の方にズンズンと歩いて行く。
――なんだったんだ、今のは? 突然やってきて……誤解を解く?
僕の考えがまとまらないうちに「おはよう!」という元気の良い声が教室中に響き渡った。
「皆集まってるよね? 昨日は休んじゃってごめん! 早速本題に入るんだけど、皆、鏡君と仲良くしてあげて欲しいんだ!」
やめてくれ。




