042.現状維持、あるいは
042
気付かないうちに学校の階段を上っていた。隣には楽しそうに話す伸の笑顔がある。
その微笑みの先にいるのが《僕》であることを、彼女はまだ知らない。
* * * * *
「《鏡現》の件、ボクは対処できると言ったけれど、それはやはり対処でしかない。わかるかな?」
「はぁ……?」
折姫さんは部屋を出る前に、扉に手をかけて、そう言った。
「ボクは《鏡現》に入ってくる光を屈折させることで――たとえば10の光を8の光にねじ曲げることで、君から出てくる2の光が外に出られるようにしているんだ。わかるね?」
「なんとなく、は」
「でも《鏡現》が持つ《反射》という属性は勿論言うまでもなく君を――これは元の君をという意味だが――守るために発生したものなんだ」
「……はい」
「でも現時点で、二週間前に《鏡現》という存在が露見してから――つまりはボクが君に《鏡現》のことを教えた日から――君は少なからず傷ついている。そこの鏡に思い切り頭をぶつけたりしていたよね」
「……」
「それはやはり当然、《鏡現》の存在理由に反している。君が行ったことが、《鏡現》の存在理由に反するということは……わかるよね?」
「僕が消されてしまうかもしれない……そういうことですか?」
「まぁ大まかに言えばそうだね。それではボクが尽力する意味がなくなってしまう。だからボクは君の《鏡現》を徐々にしか無効化することはできない。いや、それすらも怪しいかもしれないね。ある一定の値を過ぎたとき、《鏡現》は問答無用で君を消し去ってしまうかもしれない――元の無機質なただの鏡に逆戻りしてしまう危険性がある」
「それは……それだけは、嫌です」
「はは、だろうね。でもまぁ全面無効化はできなくとも、少しの無効果だけでも十分だとは思うけれどね? 今まで君が《鏡現》の存在に気づいていなかったということは、つまり《鏡現》は多少なりとも、君の考えに従って行動しているということなんだから」
「僕の考えに従って、ですか?」
「ああそうとも。《鏡現》は君の大まかな考えを基にして行動を《反射》している、とボクは推測するよ。《鏡現》は相手の性格や趣味嗜好を持った人間として、君の考えを述べてきたんだろう。そうでもなければやはり、君は気付かないわけにはいかないだろうからね、《鏡現》の存在に」
後戻りしてしまっても構わない――と。今までのままで、僕の気持ちをくみ取ってくれる《僕》に身を任せていた方が楽だ――と、僕は今、そう考えているのか?
違う。
嫌だった。僕は自分の足で歩きたいのだから。
「それでも――僕が消されてしまうのかもしれなくても、僕は《僕》に打ち勝ちたい。自分を取り戻したいんです。今までの僕は、もううんざりなんです」
――傷ついてもいい。呼吸器につながれたままで一生を終えるような、そんな人生は、嫌だ。
そんな僕の言葉を聞いて、折姫さんは少し呆れたようなため息をついた。あるいは、馬鹿にするように笑ったのかもしれなかった。
「わかったよ、君の意見は。でもそう熱くなるな、急ぐなよ。言っただろう、《鏡現》は克服するような相手じゃないと。それに対しては、良い具合の折り合いを見つけることだって重要なんだからさ」
* * * * *
昨晩、折姫さんに言われた言葉だ。
《僕》との折り合いをつけること。それが僕に課せられた急務なのだった。
折姫さんは《屈折姫》をもって《僕》に対処することを約束してくれたけれど、それは返す返すも対処でしかないのだと、念を押された。対処は相対する相手にするものであり――いずれ《僕》と同じ側に立たなければならない僕は、その対処にいつまでも甘えていられないのだった。
今まで考えてもみなかったことだった。僕は《僕》に、どういう落としどころを提示できるのだろうか。




