034.違い
034
「あ、ありがとう。鏡君」
茫然とした顔でお礼を言ったのは黒板の前でおろおろしていた開口で、そして当然のようにお礼を言われているのは僕だった。
《僕》ではなく、僕だった。
椅子から立ち上がり、クラス全体を見回すようにして大声を出した僕だった。
そんな僕を、風下は見ていた。値踏みするような目で――いや、楽しそうに、彼はぼくのことを見つめていた。
ともあれ僕は座るしかない。これ以上《僕》が(それとも僕が?)何か言ってしまう前に場を離れてしまいたかった。どさりと腰を下ろすと、ジトッとした感触が肌を伝う。雨で濡れた制服のせいかと思ったのだが、それは違ったようで――僕の書いた冷や汗が、ぐっしょりと背中を濡らしていた。体が火照る――意識もこころなしか少し遠い所にある。目の前がちかちかしだした。
そして、さっきの声はやはり自分のものだったのだと確信した。
でも――どうして? なぜそんなことが起きたのだろう。起き得たのだろう。
僕が全面に出ることなんて――前面に出ることなんてできなかったはずじゃあ……
――いや。
いや案外そうでもないのか、と僕は思い直す。
そもそも僕が《僕》を知ることになったのは、僕と折姫さんの会話の最中(正しくはその会話の後)なのだから――折姫さんを写した《僕》のことが全然見えないと語っていた彼女と会話をしていたのは、僕自身に他ならない。
だからつまり、《僕》が他者を写せないとき、《僕》は《僕》を保てない――そういう認識で問題ないのだろう。
しかし今――この場合はどうなる? 誰もそんなことを言っていなかったクラスの中で、僕だけがその状況に異を唱えた――この状況ならば? それともなにか、実は周りのクラスメートたちは心のどこかで学級会が滞りなく進行することを願っていて――そんな各個人の《少しずつ》を写し取らされた《僕》が民意としての発言をおこなったと、そういうことなのだろうか。
なるほどそれならば――「鏡君……その、手挙げないと。もう決選投票だよ? あ、いや、その、どれもやりたくないっていうなら話は別だけど……」
その声に応じるように顔を上げると、左隣に座る出席番号六番が、おそるおそるといった様子で僕の顔を覗き込んでいた。主人に初めて怒られた子犬の様な顔。突然殴られでもしたかのような、そんな顔。
その畏怖の対象は、十中八九僕なのだろう。と、さっきと同じように確信できた。
そりゃあ僕だって、今まで自分みたいだったやつがいきなり変わってしまったら驚くだろう。実は気性の激しい荒くれものだと思われたのかもしれない。
しかしどうであれ、今の僕にできることはあまりない。変に取り繕って失敗するやもしれないからだ。《僕》の詳しい発現条件が曖昧な今、僕はじっと待つべきだろう。
何を――かはわからないが。
そう思って、出席番号十二番の《僕》は、出席番号六番の奴と同じく、《お化け屋敷》に票をいれた。
* * * * *
「おかえり、鏡君」
放課後になって、僕の席に腰を下ろした風下の突拍子もない第一声は、そんな風に始まった。
「おかえりって……それはどういう――「お、そう、それそれ」
そして彼は、僕の言葉を遮りながら、さらに続ける。
「なんつーのかな、初めて会った時から思ってたことなんだけど……鏡君、何か他の人とは違うなーって思ってたんだよな。違うっても別に隠し切れない天賦の才を見たってわけでもねーんだけどよ。なんつーのかな……なんとなく――」
違う。
彼は僕を見て、そう言った。《僕》ではない僕を見て、そう言ったのだった。
「最初は、なんか俺みたいな奴がいるなぁって思って声をかけたんだよ。でも一、二時間近くでまじまじと見つめていたら――あぁ、入学式の日に遊んだ時の話な? で、近くにいてみたらよ。なんか違う気がしたんだよな。違う――違うんだよ。上手くは説明できないんだけどよ……。鏡君、《違う》って言われて――《何かが違う》って言われて、なんかピンとこないか? 心当たり、みたいな」
カーディガンの袖をいじりながら、彼は《僕》の瞳を覗き見る。まるでその中にいる僕のことが見えているかのように。僕にまで穴を開けでもするように。彼は《僕》の瞳をじっと見つめる。
じっと。
………………。
………………。
どちらも喋ることはない。互いに互いを牽制し合うように、動かない。
「まぁいいや。続きは着いてから話そうぜ」
沈黙を破ったのは、風下の方だった。彼はバッグをひょいと担いで、扉へと向かって歩いていく。
着いてから? 着いてからって……彼と僕の家とは正反対の方向だったはずじゃあ……
「着いてからってのはもちろん、鏡君ちに、だぜ」
風下は臆面もなく、そう言った。




