033.転機雨
033
ざあざあと降る雨の中、《僕》と伸は学校へと向かう。
流石の伸もこの雨では傘を差さざるを得ない――はずだったのだが、なぜか傘を差しているのは僕だけだった。
「えへへー」
可愛らしく肩を寄せる彼女のいたずらっ子のような笑みをすぐ隣に見る。
「ゲンちゃんもっと肩寄せてー」
彼女のか細い肩が僕のとぶつかり合う。いくら足が速いといってもまだ高校一年生。全身の発達度で考えればまだまだ僕と同じ子供なのだろうと意識させられる――そして彼女がやはり、れっきとした女子であることも同様に。
そんな状況に気恥ずかしさを覚える様子もなく、《僕》は伸とともに学校へと向かう。
* * * * *
教室の中に入ると、ムワリとした空気が頬を撫でた。気分も晴れない湿った空気。
「おはよー鏡君」
話しかけてくる風下の声も、どこか憂鬱そうだった。暑かったならば脱げばいいのに、ベージュのカーディガンを着たままパタパタと仰いでいる。
「おいおいどうしたんだよ鏡君。肩ビチョビチョじゃん、しかも左側だけ。誰かと相合傘でもしてきたのかよー」
濡れてしまった学ランを椅子の背もたれにかけていると、彼はそんな風に続けた。ド直球の図星に、《僕》の手さえ止まってしまう。僕が屈家に居候していることを知っている彼は、すぐその可能性にたどり着いたようだった。
「まぁしゃーねーな、シンはそういうやつだからよ。気ぃ抜くとすぐ好きになっちまうから、気を付けろよ。だからこそ、シンはあんなふうになっちまったんだが……根が良い奴過ぎるんだよな」
あんなふうという言葉に引っ掛かりを覚えたが、質問をする暇もなく「またあとでな」と彼は自分の席へと戻って行ってしまう。
そして今度は左側の席から声がかかる。
「おはよう。鏡君」
少年のような声に対して、《僕》はきっと、おはようと返した。
しかし僕は、その声の主の名前を知らない。というか覚えていなかった。確かに顔には見覚えがあるし、座っている席から出席番号は六番なのだろうという想像もつくが、肝心要の名前に関してはつゆも思い出せない。
《僕》が勝手に受け答えをしてくれるものだから、名前を覚えようという気にならなかったのだ。覚えても、どうせ僕がそれを使うことにはならないのだから。覚える意味はない。
そんな風に考えて、僕はますます、自分を薄めていった。
* * * * *
月曜日の六時間目はロングホームルームの時間だった。小中学校で言うところの、学活。今日の議題は、《文化祭での出し物をどうするのか》だった。
うちの学校は珍しく、毎年六月の中旬に文化祭が行われる。新しいクラスの結束を強めるためだとか、大学受験を前にした三年生のための配慮とか、そういった意味合いがあるらしい。
黒板の前では学級委員長の開口がクラスの意見を聞いている。いや、聞こうとしている。まずはいくつかの案を出してもらって、そこから多数決で出し物を決めるつもりだったのだろう――けれど。
多分クラスの中で彼の話を聞いているのは、僕だけだった。
誰も彼も、周りの人と好き勝手なことを喋っている。
後はお願いしますねだなんて言って、担任が職員室へと戻って行ってしまえば、こうなることも当然なのかもしれなかった。
そしてさらに悪いことに、こんなときに頼りになりそうな書記の榎さんは今日に限って学校を休んでいた。なんでも家の事情とかで。真面目な彼女に限って仮病やらずる休みではないでしょうと言ってしまう担任にはどうかと思わされたが、そう思わせるだけの神聖さ(というのもおかしいかもしれないが)を彼女は有していたのだった。
逆に、黒板の前でおろおろとしている開口には、この場をなだめることなんて到底できないのだろう。
空気を読めないような奴だと思われたくないのだ。雰囲気をぶち壊すような奴だと思われたくないのだ。真っ先に学級委員長に名乗り出た彼ではあったが――この場では、その性格を表に出すことはかなわないようだった。
勿論僕も同じだ――《僕》も同じだ。
左隣の奴を映して、《僕》が見ているのは窓の外だった。
雨粒の走るその向こうには、《第一館》が見える。二年生三年生はこの時間、自由参加の補習があったはずだ。伏郎さんももしかすると補習に――出ているわけがないか。
彼は風下に尽き従えない間、どこでなにをしているのだろう? 教室でただじっと座ったりしているのだろうか。
五分ほど窓の外を眺めていたのだが、教室が静かになる気配は一向に無かった。開口も諦めてしまったのか、《お化け屋敷》《屋台》《喫茶店》と、自分で思い付いた出し物を黙々と書き連ねていく。あとでその中から投票を募るつもりなのだろうか。それはそれで、という気もするが。
彼も内心は怒鳴り散らしたい――とまではいわなくても、一言大きな声を出したい気持ちだったろう。実を言うと僕もそうだった。もっとも僕の場合は、あまりにうるさい環境が嫌いというだけの話ではあったが。
だがしかしもちろん、僕にそんなことができるはずもない。
《僕》にそんなことができるはずもない。
だからこそ、その声が聞こえてきたとき、僕は内心――内心の僕は少し嬉しかった。
「うるせえよ。委員長が困ってるだろうが」
途端、教室は静かになる。
残るのはざあざあという雨音。
そして一拍おいてから、クラス中の全員が僕の方を見た。




