032.サイノウの懊悩(鏡 現の場合)その四
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そう考えてみてみれば――僕はあくまで《僕》に作られた感覚でしかなく《僕》の観測した出来音を感じ取るためだけの部分でしかない、と、そう認識してみれば、こんな生活も案外悪くないのではないか。
そんな感情がふと浮かんだのは、《僕》という存在が判明してから、二週間ほどたってからのことであった。
実は案外、慣れてみると楽しい生活だったのだ。
冗談ではなく。
僕の思いとは無関係に動く《僕》の――自分とは全く関係のない別の誰かの人生を体験することができるというのは、そうそうできないことだろう。
腕の傷はそこそこ治ってきた。
風下以外にそこそこ友達も出来た。
毎日の授業をそこそこ楽しく受けた。
新入生歓迎会もそこそこ笑った。
帰り道でそこそこお喋りをした。
駅前のファストフード店にもそこそこ行った。
唯一の空き時間である自室では、しかし自分勝手に動くような真似はしなかった。そんなことは無駄だと思ったからだ。
見ていて退屈しなかったとは言えなかったけれど、十分幸せだった。満足にものを食べる事さえできないような人たちがいるこんな世界で、普通に普通に、時間を浪費していく誰かの人生は……見ていて楽しかった。
あの日以来折姫さんに会うことはなかったけれど――それでよかったのだろう、彼女も言っていた通り、自分のことを理解できるのは、いつだって自分自身だけなのだから。
僕は彼女を理解できないし、彼女は僕を理解できない。
《僕》は昔の僕が作り出した業であり、《僕》は僕という業を作り出した。それを他人に背負わせることなんてできない。
僕は幸せだ。
僕は……本気でそう思った。
本気でそう思いでもしない限り、やっていられなかった。
今にも自分自身というものが崩れ去って行ってしまうようで、気が狂いそうだった。
* * * * *
何度も何度も同じようなことを考え続けた――そんなある日。
「あちゃー、雨だ」
そんな伸の声を聞いて目を覚ました朝は、入学式から二週間後――四月二十一日、月曜日の朝だった。




