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僕の中にあなたはいますか  作者:
《2》迷鏡失意
30/59

030.サイノウの懊悩(鏡 現の場合)その二




030


 セットしてもいない目覚まし時計に叩き起こされたのは、まだ太陽も目を覚ましたばかりの頃だっただろう。ゆっくりと開いた僕の目の表面を、冷え切った部屋の空気が左から右へと撫でた。

 申し訳程度の光で照らされた薄暗い部屋の中、目覚まし時計の驚いたような声が響き渡る。


「ちょっ、どうしたのゲンちゃん! 血だらけじゃん!」


 何も考えていないように――いや、もう何も考えていないのかもしれない目覚まし時計(のばし)は、血だまりになっている僕の傍に飛び込み、肩をゆさゆさと揺らす。

 右肩に添えられている手には黒色のランニンググローブ。(のばし)は毎朝、町内をグルリと一周、走りに出かけるのだと言っていた。そんなに楽なことではないと思うのだが。僕がここに来てからの少なくとも五日間、毎日欠かさずそんなことをしていたらしい。昔からの習慣、とのことだった。

 これは後から聞いた話だけれど、特に不思議でもないだろう。彼女ほどの才能を持つ者からしてみれば、その才能を活かすその習慣は、楽しくて仕方のないことなのだろうから。

 だから、ここで一番不思議なことは、どうして彼女がこんな朝早くに――日課のランニング前に僕の部屋に訪れたのかということだった。が、僕がそれを彼女に聞くことはかなわないのだろう。

 そういう状況じゃない。

 そういう状況でないのなら、《僕》がここで口を開くようなことはない。

 写せないのならば、《僕》は動けない。

 もし彼女が僕の立場だったならば、どうして日課のランニングをしないであたしの部屋にいるの? 夜這いならぬ朝這い? なんて聞くことはないのだろうから――もし彼女がそんな人間だとすれば、その言葉がそっくりそのまま《僕》の口から発されてしまうことになるのだろうから、全力で否定したいところだ。

 どうやら視界が少し狭いと思ったら、左目が閉じたままになっているかららしい。額から流れ落ちた血がそのまま固まってしまったのだろうか。眉毛や睫毛がそれぞれくっつきあっていて、無理に開こうとすると少し痛い。


「ゲンちゃん! 起きて! 大丈夫!? ゲンちゃん!」


 涙交じりの声と共に、僕の体をゆする強さも徐々に増していく。怪我人をむやみやたらにゆするなと、保健の授業で習わなかったのだろうか。左右に揺れる頬に朝の冷たい空気が触れて、おぼろげだった意識も、段々と覚醒してくる。


「待ってて! 今、ママ呼んでくるから!」


 《僕》が「痛い」とか当たり障りのないことを言ったのか、それとも折姫さんが言っていたように「止めて、シンちゃん」とでも言ったのか――ともかく彼女は僕を床に放り出すようにして、部屋をバタバタと出て行く。結果オーライ。


 * * * * *


 ジャアジャアと流れ出る水を手の平ですくって、顔へと当ててやる。左手は未だ使いものにならないのでいかんせん洗いづらい。昨日の今日で治るほどの傷であったらどれほど楽だったろうか。

 右手に収まった向こう側の僕は、《僕》の顔とぶつかってバラバラと流れていった。

 それを二度三度繰り返して顔に付いた血を拭うと、綺麗になった僕の顔が鏡の向こうからこちらを眺めていた。その顔は――昨晩ぶりにちゃんと見た僕の顔は、なんだか僕じゃないみたいだった。

 それも当然――僕に見えているのは僕の顔ではなく、《僕》の顔なのだろうから。今までずっと、そうだったのだろうけれど。

 洗面台に手をついて赤黒くなった水を見送っていると、後ろから伸の声がかかる。


「ゲンちゃん、洗い終わった?」


 鏡には、彼女が僕の頭に花柄のタオルをかける姿が写し出され、遅れて、僕の頭にふわりとした感触が覆いかぶさる。


「お母さん待ってるから、行こ?」


 タオルで額の辺りをグイと拭ってそれで十分だと思っていたのだが、額に触れるタオルは僕にその選択を許さないようにヒリヒリとした熱の感触を僕へと伝えた。自分でつけたこの傷は《僕》へのささやかな抵抗のつもりだったのだけれど、こうして僕が痛い思いをするというのは割に合わない。本末転倒だ。

 薄皮数枚程度しか傷つけられずに、抵抗もなにもあったものじゃないだろうが。

 もしかすると、これは《僕》からの反撃なのだろうか。あるいはこの傷は、僕が自分に課した痛みなのかもしれない。この程度の痛みを乗り越えられずに――この程度の痛みから目を背けられずに、《僕》という存在を許容できるものかと。

 そうだとすれば随分と自分に甘いもんだな、僕は。


 こんな人肌の、熱湯の代わりとも冷水の代わりともつかないぬるま湯の中で、僕はこの先どうすればいいのだろうか。どうなっていくのだろうか。タオルによって遮られたどっちつかずな薄暗さの中、自然、廊下を進む足も止まってしまう。

 なにも、知らなければよかったのかもしれない。川を流れる木片が知能を持ってしまったような――そんな事態に、今の僕はあるのだ。何も知らずに、ただ流されていればよかったものを。

 これがきっと――知らない方がいいこともあるというやつなのだろう。知らぬが仏。

 自分がすでに自分ではなかったなんて――身をもって実感するにしては、教訓として身に付けるには、いささか酷な現実だった。




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