029.サイノウの懊悩(鏡 現の場合)
029
どれほどの時間が経ったのだろうか。
意識の遠近が判然とせず、何がどうなっているのかの判別が付けられない。気付かぬ間に何日も経っていると言われても違和感がないくらいだった。目の前の天井との距離すら曖昧で、枯れきってもまだ声を出し続けようとする《僕》の喉からはヒュウヒュウと空気が漏れていく。
無意識下の意識のみが僕を形作っている――どころか、僕はその意識そのもので、ただの意識でしかない。元々、《僕》はそういう目的で僕を作ったんだったか。役目も忘れてこんな風に泣きわめいているだなんて、滑稽だ、僕は。そんな風に自嘲気味に笑うのは《僕》ではなく、僕だ。
誰も写す相手のいない今――今だけは、僕は純粋に僕であることができる。
でも、それだけだ。
そこまでだ。
誰かを写してしまえばそれまでで――なにより、こんな状況の僕は、《僕》に消されてしまってもおかしくはない。《僕》の存在に気付いた僕は、僕や《僕》を傷つける――精神的に蝕む害であることに違いない――自分を脅かす、害であることに。
一貫して他者を写し続ける《僕》の副産物――いや、この場合は副作用、だろうか。
《自分》を呪う自分という自己を、自分を作り出した《自分》自身が許すとは到底思えない。
ただ感じ取るだけの部分。あってもなくても変わらない自己意識。なんだったか……そう、哲学的ゾンビのごとく、《僕》は僕の意思に無関係に動く。僕というクオリアに、意味なんて無い。
僕が持っているのは、――僕が《僕》自身に強いた《僕》自身は、そういう差異能なのだから。
だったら、僕が《僕》に消されてしまうまで――一秒すらも惜しんで、僕は誰とも会うべきではないのかもしれない。《僕》が誰かを写しているとき、僕はいないものと同じなのだ。
僕を認識し得る誰かの前では、僕は僕たりえない――絶対的な矛盾だ。
「やぁ、やっと静かになったみたいだけど、具合の方はいかがかな?」
瞬間、部屋の中が煌びやかに光りだした。スイッチをカチリと付けただけのような気軽さで、何の脈絡もなく部屋の中は光で満たされる。さっきのように――プラネタリウムの中にでもいるように。
――そうだった。
一人だけ、いや、二人。《僕》に写し取られない人間がいた。厳密には、《僕》のことを知覚できない人間――だろうか。
一人目は、屈伏郎。
彼は《僕》によって写し出された彼を認知しえない。彼の目に、《僕》は彼の如く自分というもののない希薄な存在として映る――つまり、映らない。
そして二人目が目の前の彼女。屈折姫。
彼女は伏郎さんとは違う。
ちぐはぐで、ぐちゃぐちゃなかたちであっても、僕を――《僕》の中にいる僕の存在を知覚することができる唯一の人間だ。そう――言っていた。
だから――
「あは、何それ。大丈夫かい? 現君、血だらけだけど。あぁそういえばそうだね――男子はボクみたいな見目麗しい女子と違って、あれとかあれとかがなくて、血の入れ替えが行われないから定期的に血を流すといいって聞くね。その一環なのかな? 面白い試みだけど、あの手の話は嘘だから真に受けない方が良いよ。なんのために骨髄やらなにやらが日夜働いていると思っているんだよ。その真偽に関係なく、血の気が多い奴は血を抜いた方がいいとも思うけれど――自分から血を流そうってほど血の気の多い奴もそうそういないだろうしさ」
君はそういう血気盛んなタイプじゃないと思っていたけれど――と言いながら、彼女は僕の周りをクルクルと歩き回る。決して高くはないその背丈でも、床に倒れた僕を見下すには十分すぎた。
「何とか言えば? ――って、そんな気力も残ってないのかな」
言われてみれば――何かを話そうとした唇には力が入らなかった。《僕》によって妨害されているというわけではないのだろう。ただ単純に、血を流しすぎたのか、疲れてしまったのか――それだけの理由だ。考えることだけは出来ても、体はそれについてこない。彼女の姿を目で追うのが精いっぱいだ。
金縛りというのか――眠りに落ちる直前の微睡みの中にいる気分だった。
泥の中にでも、いる気分だった。
だとしても、なんとか、口を開きたかった。
声を紡ぎたかった。
僕はこれからどうすればいいのかと、この何もない《僕》の中で、僕はどうすればいいのかと、彼女に問いかけたかった。
それはだから――彼女が、彼女だけが、僕の存在を理解してくれているから――
「まさかとは思うけれど、現君――ボクになら、《君》ではない君の存在を知っている僕にならば、何か相談事ができるとか……そんなこと、考えていないよね?」
それは――見透かしたような、そんなおちゃらけた台詞は、彼女にとっては数ある考えの一つだったのかもしれない。だが、僕にとってはたった一つの、正しい答えだった。
心中を言い当てられた僕の目は今ごろ――誰の意思でもなく当然のように、見開かれていることだろう。
「……まぁ、こんな風にカマをかけようと思っても、ボクには君の姿は全然まともに見えないんだけれどね」
僕の顔を覗き込むようにしていた姿勢から再び背筋を伸ばして、彼女は僕に背を向ける。
「顔なんて、靄がかったみたいに全然見えないよ。全く、本当に嫌な差異能だよね。ボクは周りから、そんな風に見られているのか――なんて、《君》の写し出すボクはそのまんまボクの外見ってわけじゃないだろうけど。」
それに、そんなグチャグチャななりだって、ボクよりはいくらかマシってものだよ――と付け足した言葉は、聞きようによっては、僕に言い聞かせるためのもののようにもとれた。
「他人に自分を理解してもらえるとか、そんな甘いことを考えてるんじゃねーよ。自分を理解できるのは、いつだって自分自身だけだ。そうは思わないかい? ――まぁ思わないからこそ、そんな質問ができるのか。しようとしたかは知らないけど」
彼女は再び振り向いて、僕にその顔を見せる。その顔はなんだか、寂しそうにも見えた。
「ま、ボクもボク自身のことなんて、全然わからないんだけれどね」
――自分で目を背けておいて、よく言うよね。
彼女のつづけた言葉は、僕の耳には届かなかったけれど、その思いは僕の中にまで届いていた。
差異能――才能が前へと進む力ならば、差異能は後ろ向きに歩く力。彼女はそう言っていた。未来から、自分から目を背けて、それでも歩くための力。
《僕》も、伏郎さんも――そして彼女とて例外ではないのだ。
自分から目を背けている。
何かから、目を背けている。
しかし、背けてはいても――前へ進もうとしている。
目を背けるということは、嫌ってはいてもそれを許しているということに他ならないのだから。そうやって、自分を何とか許して、生きている。
「君は、君が――昔の君が自分のために作り出した存在なんだからさ。正確には、さらにその副産物、なのだろうけれど。《君》は現実から目を逸らしたけれど、君はそうするべきじゃない。現実の理不尽や、異常を、自分とは違う何かとして、不和や違和を感じるために作り出された自己としての君は、現実から目を逸らしちゃいけないんだよ。どれだけ《自分》に絶望してもいいけれど――間違っても《自分》を消してしまおうだなんて考えないことだ。自分のいない《自分》なんて死んでしまえと、思わないことだ。作られたものは作ったものの幸せを第一に考えるものだよ。もの――というか、べきだよ。ロボット三原則とか、知っているかい? 親孝行をしろというのも結局は同じような話なんだがね。君は《君》を大事にしてやるべきなんだよ。ボクも伏郎も、こんな嫌で嫌で仕方ない世界で何とか生きてるんだ。《君》だって、根元的には同じ――死んだら、それこそ本当におしまいだからね」
その言葉と共に、彼女は部屋を後にした。
扉が閉まる音を皮切りに、部屋の中は再び夜の静けさに包まれる。うるさいくらいに部屋の中に散りばめられていた星々も雲がかかってしまったように、見えなくなる。
しかしそんな風景の変化は僕の視神経を微かに刺激しただけで――当の僕が考えていることと言えば、彼女の言った言葉についてだった。
自殺ならぬ――《自》殺。
そもそも僕に、そんなことができるとも思っていなかったけれど。
いつ消えてしまうかもわからないのならば、自ら命を絶つ――そんなことができるのならば、そんな選択ができるのならば、そんな負傷ができるのならば、そもそも《僕》が生まれることもなかったのだろうから。
僕には――なにもできない僕にはきっと、祈ることくらいしか許されていないのだろう。
自分という存在が、一分一秒でも長く、《僕》の中にいられるようにと。
祈念もむなしく大海に放り出されてしまった僕の祈りに、どれほどの価値があるのかはわからなかった。




