024.僕の答え
024
「あはは、なんてね。人間如きがお星さまになりかわろうだなんて、思い上がりも甚だしいよね。君みたいにちぐはぐな奴を愛せるとも思えない――ボクだって、織姫様の器じゃないってことかな」
一人呵々大笑し、渡ってきた《天の川》を反対方向へと進む彼女は――屈折姫と、そう名乗った。彼女がこの家の長女――伸曰く《ヒメ姉》こと、屈折姫なのか。僕がかの彦星になれるだなんて毛ほども思ってはいないが、彼女ほどの美しさならば織姫を名乗っても良いとも思う。それほどに、彼女は美しかった。
まるで、そういう風に形作っているかのように。
それにしても――と、僕は扉から一歩入ったところで、彼女をまじまじと観察する。長女である彼女は――当然次女である伸よりも年上なのだろうけれど、その姿はまるでそんな風には見えなかった。美しさを体現したような相貌だと表現したが、決してその肉体が大人びた魅力を放っているというわけではない。彼女の見た目は、伸と同年代――いやさ年下にさえ、僕の目には映る。
「何してるんだい?彦星クン。早く入っておいでよ」
思い上がりも甚だしいなどと言っていたくせに織姫彦星の設定は継続しているようで、彼女は入室を促す。尋ねてきたというのに扉の傍でただ突っ立っているというのもいささか失礼だったか。
「ボクは話すのが好きだからね――偶の話し相手がいないと、暇で暇でしょうがないんだよ」
ボールチェアに全体重をかけ、足を組むようにして彼女は言う。長い裾から覗くその足からは、まるで妖精が舞っているかのように光の粒が煌く。僕はその光景に気圧されつつも、部屋の中央、《天の川》を挟んで彼女と対座する。そこら中に貼りつけられた星々に実体は無いようで、ここに来るまでにそれらに当たるというようなことはなかった。
まるでこの世ではないようだ、とも思う。日常の中の些細な差異や違和ならばいざしらず、ここまで世界が違うと、それらはむしろ僕に好意的に語りかけるかのようだった。
「無限に続く世間話に百花繚乱舞い散らせたいところだけれど、ここに来たということは答えが出たということなんだろうね」
《君》の中の君に――そう、彼女は続けた。そして言ってごらんとでも言わんばかりに、薄く笑みを作る。
その通り。
僕は昨晩、彼女に言われた通り――《それについて確信を持った》からこそ、今日この場にいるのだ。
多重人格――それが、僕が僕に対して出した結論だった。僕は無自覚にではあるが、多重人格――一般に解離性同一障害と呼ばれるそれに侵されている。僕のこの流されやすい性格にも、付き合っていた友人との別離にも、伏郎さんに僕の言葉が届かなかったことにも、これで一気に説明がつく。
無論、無根拠というわけではない。
心的負荷によって解離――新たな人格の形成が行われるというそれは、僕が中学生の時にはもうすでに発症していたのだ。人との関わりというのは本来途方もないエネルギーを浪費する。僕だってあまりやたらめったらに友人を増やすようなことはしたくない。
その考えこそが原因だった。
小学校から中学校へ、広く開け放たれたコミュニティは、僕の精神を異常な速度で蝕んでいった。昔から流されやすくはあった僕だが、これが原因でその性格は加速する。新たに形成された《僕》は他者との衝突を避け、周囲に紛れることを選択した。それも当然――そういった負荷から逃れるために新たな《僕》は形成されるのだから。佐藤だか鈴木だか、彼ら彼女らとの別離は、そんな《僕》を目の前にすれば当然の結果だった。だって、多重人格者なんていう――そんな異常を受け入れられる人間なんて、そうそういないのだろうから。僕の両親が僕を段々と避けるようになったのも、僕をこの家に押し付けるようにしたのも、それが原因だったのだろう。
この何日かで僕はしっかりと経験している。
異常のこれ以上ない異常さも。
不和の不安定さも。
違和に対する謂れのない非難にも。
非常の非情さにだって。
直面しているのだ。それに好奇心を持つのも、もしくは蓋をして見ないふりをするのも、当然のことだ。そしてそれに相対した彼ら彼女らは、そのうちの後者だったと――それだけの話。
伏郎さんに僕の声が届かなかったことだって、新たな《僕》が何も喋らなかったからという、それだけ――単純すぎて拍子抜けするようなそれだけの理由なのだ。
そして、そんな次から次へと新たな人格――新たな《僕》を形成し続ける《僕》の中に、僕がいる。
主人格として全ての人格を認知しないままに――しかし全ての人格の経験を認知する、僕がいる。
それが《僕》の中の僕、の正体。僕ではない、《僕》の正体。
これが僕の核心で、確信だ。だから――
「ねえ彦星クン」
急に折姫さんが声を上げる。僅かに含まれていた怒気は僕の思考を遮るに十分だった。僕の話に何かおかしい所でもあっただろうか――いや、確かにご都合主義で、結果論的な終点であるとは思うのだが――
「さっきからわけのわからないことをつらつらブツブツと、ボクのことを馬鹿にしているのかい?」
言って彼女はスッ、と手を伸ばす。
その手は僕と《天の川》を隔てながらも――彼女と僕との距離を無視するように、確実に僕の顎に触れる。射程などないとでも言わんばかりに。または彼女が見えない手をいくつも隠し持っているかのように。その透明な手は彼女の挙動を模倣しながら、僕の顎をクイと上げた。
「ボクは話し相手が欲しいんだよ。《君》じゃあ話にならない――ボクは昨日、君に話しかけたつもりだったんだけどな」
言葉が、出なかった。実際に僕の言葉が形になって彼女に届くかとは別問題で――彼女が言う《僕》が話すかどうかは別問題で、当の僕も言葉を失ってしまった。
言葉を出そうと思えなくなってしまった。
まさか――彼女にも伏郎さんと同じように、僕の声は聞こえていないのか。
いや、聞こえてはいるのかもしれないが――届いてはいない。
彼女は一瞬の間、僕を値踏みするようにねめつけた後、期待外れだと言わんばかりに嘆息する。
「あぁ、本当につまらないよ。折角君が《君》の中にまだ残っているかと思っていたのに……、期待外れも甚だしい」
彼女は僕の顎から手を離し――いや、顎を掴むようにしていた手をくるりと返し、宙空を突き飛ばすようにする。すると見えない手も同じように僕の体を突き飛ばした。
「なんか飽きちゃったし、消えるなりなんなりしてよ――ね」
彼女の念押しするような言葉に呼応するように、部屋の中央に流れていた《天の川》が一気にその流れを速めた。秩序だって散りばめられていたであろう星々は取り乱したかのように部屋中を駆け巡る。その数も、もはや数え切れないほどにまで膨れ上がり、点ではなく線――どころか面となって、吹雪のように僕の視界を埋め尽くした。
静かに荒れ狂う星の輝きで真っ白けになってしまった世界で、僕は思う。また流されてしまうのかと。星の濁流に呑まれて、押し流されてしまうのか、と。
普通ならばそうするのだろう。こんなわけのわからない部屋から逃げ出して、床に就いて――明日の朝にはこれも夢だったと割り切って、伸とともに登校し、風下の軽口を受けて、千さんや伏郎さんという些細な不和や違和に流されて、いずれ抗う気力もなくなって、流されながら、先へと進んで――下っていくことになるのだろう。
でも今の僕は違う。今の僕は普通じゃなかった。さしずめ、この異常な――普通じゃない空間に流されてしまっただけなのかもしれないけれど――今の僕はそんな流されることに抗おうとしていた。昨晩、伏郎さんに対して踏み出せなかった一歩は、今ここで踏み出すべきなのだ。
《僕》が、じゃなく、僕が、だ。
「まっ――」
言葉が詰まる。喉の奥で堰き止められる。
「まっえ――」
溢れだす言葉は不器用だったが、乱暴ながらも確かにその意味を紡ぐ。
「待って、くれ」
そして僕はたった一歩――一言、誰にだって言えるようなことを、やっとの思いで絞り出し、前へと進む。
そんな僕の声は――《僕》ではない僕の声は、酷く懐かしいもののような気がした。




