022.人格者
022
――熱い。左手に走る激しい熱に、咄嗟に瞑ってしまった目を開ける。
突き立てられた錐は僕の左手の母指球の辺りを貫いて、手の甲からその尖った頭を見せていた。
熱さは痛みに変わり、状況の重さを僕に知らしめる。痛みに顔が歪み、足がガクガクと震えだし、胸の奥でムカムカと吐き気が沸き起こる――がしかし、僕はその突き立てられた錐を包み込むようにしっかりと握りしめる。恐怖に怯えて、痛みに慄いて、状況に圧倒されようとも、ぼくがその握りこぶしを解くことは決してなかった。
なぜかはわからない――無意識で。
その錐を僕に突き立てた奴は、もうどうにでもなれというような表情でその錐を僕から抜き出そうと――延いては、再び突き立てようとしてくる。乱暴に、僕の手の肉をかき乱すように。そうなってしまっても、僕の行動は止まらない。どころか錐を奪い取って、同じように奴の手へと突き立てた。
もみ合いになって、二度三度、腕に錐を突きさすと、その表情や感情はもう僕に向くことはなくなった。悲鳴を上げながら踊り場から階段を伝って四階へと転がり落ちる。
乱れる息もそのままに周りを見渡すと、僕を取り囲む奴らの害意の眼差しは未だ僕へと向いているのがわかった。何人か眉を歪めて後ずさりする者もいなくはないが。
そこからは最初の奴と同じだった。
カッターナイフもバタフライナイフも彫刻刀もこの場では大差なかった。刃物を腕で受け止めるだなんてことを僕がするとは、奴らも思っていなかったのだろう。
――勿論僕だって思っちゃいなかった。
ただ理論的に《できる》というだけで――小さなナイフなんかで人を殺す事は、本来難しいことなのだ。肉体的にも――精神的にも。そう思い知らされた。
思い知らされたし、思い知らせてやった。
己が身を盾に戦うような狂気の沙汰を目の前にして、その手に持つ矮小な凶器を振りかざすことなど到底かなわない。敵うわけがない。
僕が傷つき、奴らも傷つき、時間は過ぎていく。
* * * * *
眼前にカッターナイフを突きつけられ、悲鳴と共に階下へと逃げ去った奴を最後に、その場には僕と血だまりだけが残る。流石に奴らを追うような余力は無かった。糸の切れた人形のように、僕の体はその場に座り込む。
左手からドクドクと溢れてくる血と、その痛みに――徐々に薄れ始めた僕の意識は、階下からやってきた喧しい足音と僕を呼ぶ声のおかげでなんとかこの場に留まる。
「ゲンちゃーん?いるー?」
こんな殺伐とした状況に似つかわしくないその声は、僕を酷く安心させた。
* * * * *
保険医の頓狂な声で必要以上に包帯でグルグル巻きにされたその腕は、貸し出された腕吊り用のサポーターに包まれて、共に帰路についていた。
左手は左腕もろとも使いものにならないので、僕の自転車を伸が押して歩いてくれている。彼女も歩くことができたのかと今更ながら驚いてみたりする。入学してから初めての《一緒の下校》がこんなことになってしまったのは、少し残念だとも思う。まぁ、こんなことにでもならなければ彼女と共に登下校することなんてできなかったのだろうけれど。
因みに保険医からは、今日は一旦帰って病院に行くように、としどろもどろに言われた。その慌てぶりにも頷ける。学校の保険医をしていて、刃物による刺し傷なんてめったに見るものじゃないだろう。
その様子からして、僕が返り討ちにした――返りの討ち合いになってしまった奴らは保健室に行くことなく帰ってしまったようだった。仕掛けてきた手前、被害者のような真似は出来ないということだろうか。怪我人であることに変わりはないというのに、変に真面目な連中だ。
疼く左手に振動を与えないようにしながら歩いていると、前を歩く伸が振り向く。その目は、今までになく厳しいものだった。どことなく怒ったときの母さんの目に似ていた。やはり親戚なのだ。
「ゲンちゃん、なんであんなことしたの?」
一通りの事情はここまでの道中で説明したので、僕が奴らに対して突っかかったというわけではないことは知っているだろうが――だから彼女が怒っているのは僕のした対応についてなのだろう。
なぜ逃げなかったのか――と、そういうことだろう。
たしかに彼女ほどの足の速さや身のこなしをもってすれば、たかが十人強の人間など赤子を撒くのと同じくらい簡単に撒いて、走り去ることができるのだろう。いや、僕だって足の遅い方じゃない。本気で逃げれば、切り傷の一つや二つつけられてしまうかもしれないが、あの場から逃げ出すことはできたはずなのだ。
「そりゃ、いくら酷いことされたからってあんなの――」
けれど僕はそうしなかった。
僕が生粋の武道家よろしく襲ってきた奴らのうち一人も傷つけずに、ことを済ませられたというのならばそれは称賛に値するのだろう。明日のHRで名指しで褒められたりするのかもしれない。
しかしこの場合は違う。僕は生粋の武道家なんかでもなければ、めっぽう喧嘩に強い友人が助けに来てくれたわけでもない。ただ暴力的に――返り討ちにしただけなのだ。ことの発端がどちらにあるかということはこの際関係ない。喧嘩両成敗という言葉があるように、怪我を負わせてしまえばいくら圧倒的な被害者であったとしても世間は加害者としてその人間を見る。正当防衛という言葉は防衛の範疇であればこそ、その力を発揮するのだ――反撃や反逆は決して正当なものだとは認められない。
「酷いよ」
不当反撃――それが僕のしたことを端的に、そして正当に表していた。
ただその反撃は、決して僕の望んだものではないのだ。ないはずなのだ。どう釈明しようとも、それを証明することはできないけれど、僕だけはそれがそういうものではないと――僕の望んだものではないことだとわかっていた。
初めて刃物を突き付けられて、恐怖に震え上がっていたのだ。初めて刃物を突き立てられて、痛みに畏れ慄いたはずなのだ。
けれど僕は退かなかった――退けなかった。それは、退いた方が良い状況だったけれどここで退いたら誰がこいつらを、とか、そういう理念高い考えに基づくものでは、決してない。僕は退きたかったのだ。そして逃げたかった。理念も信念もかなぐり捨てて、あの場から離れたいと切に願っていたはずなのだ。
しかしそんな考えとは裏腹に、僕の手や体は反撃を試みた。
状況に流されることなく――どころか、僕の考えにさえ流されることなく、僕の体は勝手に動いていたのだ。
擦り傷を負ってしまった右手を舐めるように眺める。いつも通りの、僕の右手。
勝手に――まるで、僕じゃない僕に操られていたかのような僕の体。
僕じゃない、僕?
足が止まる。
浮かんだのは、昨日言われた――そして考えた、文字列の一部分。
《僕》の中の僕。
それじゃあまるで――
僕の中にもう一人、別の誰かがいるみたいじゃないか。




