021.衝撃と襲撃
021
翌日――木曜日の朝はいつもと変わらず訪れた。
昨夜の出来事が原因で突如として変身ヒーローに任命され、世に蔓延る悪と戦うことになったり、知らない天井を前に目を覚ますなんていうことはなかった。
いつも通りに元気の良い叔母さんと、いつも通り足の速い伸と――いつも通り家にいない伏郎さんは、僕と伸が朝食を食べ始めたときにはもうすでに家を出ていったあとだった。また風下の元へと戻ったのか、それとも新しい主人を捜しに出て行ったのか――学校へ行ってから風下に聞いてみるとしよう。
焼かれた食パンにバターを塗って齧る。この家での朝食はご飯食が多いのだが、今日は初めてパンが出て来た。叔母さん曰く、ご飯を炊き忘れてしまったらしい。見ようによっては――これも異常。昨日のあの事の後だから、なにかこれにも巡り合わせというか、裏があるように感じてしまう。
いつも通りではないあの事――突如として現れた、あの女性。一方的に話すだけ話して、姿を消したあの女性。彼女の存在は、今まで僕の周りに渦巻いていた異常を些細なことだと切り捨てるかのように激しく、圧倒的に流し切ってしまった。
《違うだろう。《君》はそんなことをする奴じゃないはずだ。》《《君》の中に君がいるというのなら話は別だ。》《君がもし、今の君が置かれている状況に付いて知りたいというのであれば教えよう――》……彼女の発したその言葉の一つ一つが僕の頭に反響し、鬱陶しくもその音を奏でている。
《僕》の中の僕――それはあのとき、伏郎さんを追う一歩を踏み出すときに使用した定型と奇しくも一致していた。《僕》の中の僕――この流されやすい《僕》の中の流されたくない部分。なんの力もないはずの木片が有した抗うための一部分。《僕》という囲まれた一部分の中に僕が存在する。それはさながら、残された希望のように。僕のそういうイメージというか、感覚のようなものを、彼女は知っていたとでもいうのだろうか。そして、最後に言っていた《君がそれについて確信を持ったときに、ここに来たまえ。》という言葉――《僕》の中の僕についての、確信?
玄関口で靴を履き終え、手を玄関の扉にかける。その握る手は、間違いなく僕のもの――のはずだった。試しにと扉から手を離し、ぐーぱーと手を開閉してみる。特に変わったところはない。寝ている間に改造人間にされているといったこともないようだ。
「……ゲンちゃん、なにやってんの?」
僕が出てくるのを待ちかねたのか、玄関扉を開いて顔をのぞかせたのは伸だ。呆れ顔というか、不審そうな顔で僕のことを見つめている。
「大丈夫?」
彼女はその顔に違わず不審がるような目で、僕を見ながら言葉を投げた。
言葉。
ふと、思考の合間に一本の糸が現れる。あの女性の登場で酷く霞んでしまったけれど、伏郎さんの言った《なぜ、ご帰宅されてから一言もお話しになられないのです?》という言葉についても、まだ全く解決していないのだ。今朝も叔母さんと伸はいつも通りで――とても、今まで喋っていた僕が突然一言も発しなくなったという状況だとすれば、それにそぐわない態度だ。そんな変化を感じさせるようなことはなかった。厳密に伏郎さんの言葉通りに受け止めるならば、僕は昨日、家に帰ってきてから一言も発していない、らしいけれど――いや、違う。伏郎さんにとっての僕が昨日帰宅してから、というのは伏郎さんと初めて対面してからずっと、ということだ。正味、伏郎さんは一度も僕の声を聞いたことがないということになる。
となると、どうなる?
いつも通りに振る舞って――それでいて僕が一言も発していないとするならば?
バッと、無意識に口元へと手が伸びてしまう。その手に伝わるのは、僕の震えた息遣いと、冷えた唇の感触。そして浮かぶのは、荒唐無稽で恐ろしい考え。
僕は今まで、一度も喋ったことがない?
背中に悪寒が走る。
しかし、《一度も》というのは誇張が過ぎた話か。正確には昨日伏郎さんにあの言葉を言われてから――その後に普段通り接した人間から普段通り接された場合、その人間とは初めから会話をしていなかったことになる。とはいえ、信じられない。考えただけでも気持ちが悪い。自分が唯一、その全てを掌握し、理解し尽すことのできる――その自分という存在が、自分の知らないことをしているだなんてこと。
しかし勿論――確証はない。手放しで肯定なんて、できるものか。そもそも意思疎通の不備が起こった事だってないのだ。まさかそんなことがあるはずがない。
口に当てた手をそのままに顔を上げると、伸が不思議そうに僕のことを見つめている。
「どうしたのゲンちゃん? 遅刻しちゃうよ!」
地団太を踏みながら、彼女は僕の手を取り、外へと連れだす。
わかっていたことだが、昨日の帰宅から今日にかけて、彼女の態度が変わったということはない。それはつまり、僕は彼女の前で一言も喋ったことがないということ――なのか。しかしそうだとすればこれまでの諸々はどういうことになるのだろう。確かに昨日から今日にかけて彼女の様子に代わった所はないが、初めて会った時――先週の土曜日に、彼女は《喋らない人間》として僕を捉えているはずなのだ。伏郎さんがそうしたように、君はどうして喋らないの、といった質問をされてもおかしくない。しかし彼女の口から僕に対して喋る喋らないという趣旨の言葉は、僕の記憶の限りではあるが一度として登場していない。同じように、叔母さんからも、風下からも、榎さんからも、そのような指摘を受けた覚えはない。
だからといって、僕がそれを確認する方法は、無い。それともなにか、《僕はちゃんと喋れているかい?》と聞いて回れとでもいうのだろうか。馬鹿馬鹿しい。今まで喋っているつもりで喋っていなかったとして、今喋ったつもりで、今までの僕が喋っていたか喋っていなかったかを確認しようとして、その自分が喋っているか喋っていないかを確認することなんてできるものか。
堂々巡りだ。
そんなことを考えている間に僕は学校の前まで到着する。伸はいつも通り、鞄だけを取って校舎の方へと向かい、僕はいつも通り、自転車を押して駐輪場へと向かった。
* * * * *
教室に入ると、いつものように風下が話しかけてきた。全くいよいよもって、彼は他に話す相手がいないのだろうか。
「鏡君おはよー。どしたの? 元気なさげだけど」
言って彼は、僕の机の上へと腰を下ろす。
僕は彼に、昨晩返ってきたノーの――伏郎さんの件について質問した。お前に付き従っていたノーが、なぜ屈家へと帰って来たのか、と。こんな状況では――僕が話せているかどうかもわからないなんていうこんな状況下では、まともに質問することも危ういかと思われたが、彼に対して僕の質問は問題なく伝わったようで、「あぁ、たしかにノーは帰したけどよぉ、たまには帰らせてやらねーとシンの奴も心配するからな」という普通の返答があり、少し安心する。
そんな僕の安心とは関係なく――彼は一瞬天井の方を見上げ、少し思案するようにしてから、再び口を開いた。
「……って、あぁ? なんでお前、シン家にノーが帰ったこと知ってんだ?」
その瞳は、さながら鏡のように僕の不思議がる顔も内包していることだろう。彼――風下と伸とは知り合いだったのか。と、意図せぬところで世界が進展し、僕は心の中でつんのめる。ヒロインと主人公の親友とが幼馴染だったような、そんな不調和な流れを感じた。……決して、僕が主人公だと傲っているつもりは無い。
「シンは昔っからの友達だぜ。休日はたまに遊んだりするな。ってか、こっちこそ驚きだぜ、なんだよ鏡君、お前シンの家にいたのかよ? 居候ってやつ? へー、珍しいこともあるもんだ」
彼が言葉を区切ると、丁度見計らったようにチャイムが鳴った。
またあとでな、と背を向けた彼から目を逸らし、今の彼の言葉を思い返す。彼と伸とが知り合いだったというのには少し驚いたが――なにも今気にするべきことではないだろう。別に不思議でもない。
問題は――今の僕が向き合うべき問題は、そこではない。どうやら意思の疎通は、問題なくできているようだった。彼に不審げな顔をされることもなかった――彼が心を読む特殊能力を持っているか、僕がテレパシーで相手の心に直接語り掛けているなんてことがなければ、普通に考えて僕と彼とは問題なく、客観的に見ても、会話できていると考えていいはずだ。
背もたれに体を預け、嘆息する。
わからないことだらけだ。
昨晩のあの女性が言っていた、《君がそれについて確信を持ったとき》には程遠いようだった。
* * * * *
放課後になった。今日の授業も酷く退屈なものだった。古典の予習をやれだの地理の白地図を埋めて来いだのといった課題は、僕の帰る足を憂鬱なものにさせるだろうが――見方を変えてみれば、その普通は今の僕には丁度いいものなのかもしれない。
賑わうクラスメイトの中、風下は早々に教室を出て行く。いくつかの部に仮入部に行っているそうで、今日は陸上部に行くらしい――昼休みに聞いた話だ。伸と知り合いならばそれも悪くないのかもしれない。僕は誰かに部活動に誘われることもないので、教科書を鞄に仕舞い、黒板を消して帰り支度をする。部活動――か。このままだと帰宅部だな、と僕は自嘲気味に笑った。
黒板消しと黒板の仲人をせっせと務めていると、その間に影が差す。いつのまにか僕の周りを数人のクラスメイトが囲っていた。名前は忘れたが、あまり活気のあるような奴らではないことは一目見ればわかる。場に馴染めないのならば僕と同じように場に流されてしまえばいいものを、つまらない意地を持っているばかりに――持っているだけではなく周囲に知らしめようとするばかりに、人間関係を崩してしまうような奴らだ。
「鏡君、ちょっと良いかな」
ガシリと腕を掴まれる。彼らの見た目はあまり健康的とは言えないそれだったが、力のこもったその把持からは、彼らの真剣さが伺えた。いや、それは真剣さというよりも――狂信的な何か、だろうか。僕は今日も伸と帰る約束をしていたし、風下はそれをあっさりと受け入れてくれたけれど、彼らがそんな聞く耳を持っているとは思えなかった。
そしてこれが、熱心な新入部員探しという風にも、同じく思えなかった。
* * * * *
ドシン、と――さびれた掃除ロッカーの鈍い音が響き、僕はその場に倒れ込む。
連れてこられた場所は僕の教室がある《第二館》――その最上階だった。屋上へと続く踊り場――そこに電気はなく、四階からの光だけがここを照らしている。屋上へとつながるのは片開きの鉄扉で、外からの光が差すというようなこともない。これも伸から聞いた話なのだが――過去の彼女は授業参観に来ていったい何をやっていたのだ。
正面を見据えると、見たような顔と見たこともない顔が交じり合って僕の行く手を阻んでいた。相手が一人や二人――さっきまでのように五人までだったら、なんとか逃げ出すことができたかもしれないが、ここに来るまでに彼らの人数は十人強にまで増えていた。僕のクラスの人間だけではなく、他の一年生――さらには二年生や三年生までいるようだ。
薄暗い中でその顔を眺めると、どの顔も冴えない眼差しで恨めしそうに僕のことを見つめている。不良という風には見えない。むしろ普段から授業を真面目に聞いて――聞きすぎて、クラスから孤立してしまうような、そんな生徒に見える。
「お前が――」 「伸さんと――」
「ヒメ様の――」
「俺らのヒメ様に――」 「昨日、確かに聞いたんだ――」
「調子に乗りやがって――」
「シンちゃんだなんて――」 「死ねばいい――」
「見たんだからな――」
誰か一人のそれを皮切りにまとまりの無い言葉が、ボソボソとコソコソと細々とその場を満たしていく。ヒメ――?シン――?聞こえてくる言葉の羅列からそれらの単語を拾いとる。ヒメっていうのは――《ヒメ姉》のことか?そういえば、そんな人間も屈家にはいたのだった。
――あ。
いや、まさか。と、状況にそぐわず、一筋の閃きが僕の頭に差す。わからなかった数学の問題が、国語の問題演習の中でわかってしまったような、拍子抜けした感覚。昨晩のあの女性が――あの、美しさを体現したような彼女が、《ヒメ姉》だったというのだろうか――確かめる手段は未だ無い。そうだったかもしれないというだけの妄想で、空想だ。
そう考えたところで僕の疑念が晴れるというわけではない。
「鏡ぃ……」
そんな誰のものともわからない言葉が、閃きに引かれて――惹かれてしまった僕の考えを元の場所へと戻す。今はこの場が先決だろう。
目の前の彼らを見ると、手に何やら持っているのが見えた。それはカッターナイフであったり、彫刻刀であったり、バタフライナイフであったり、様々ではあったが――どれもこの状況では一括りに、一つの目的のために扱われるためのものなのだろうということは、想像に難くなかった。
友達になろうよ、という雰囲気では決してない。
「なんでお前みたいな奴が! ヒメ様とぉぉぉぉ!!!」
僕を囲んだ彼らのうちの一人が、意を決したかのようにその手に持つ錐を振り上げる。刃渡りは十センチほどで、工作室にでも置いてあったかのようなそれは――ってこんなこと考えている場合じゃ――
ポタリと、血の滴る音がした。




