020.僕と《僕》
020
それは――それは、どういう、意味だ?
思いが、言葉にならなかった。
いや、伏郎さんの言葉を信じて言うならば僕は今日、一言も喋っていなかった? 僕の思いは、一度として言葉になっていなかった?
そんなはずは――ない。夕食の席でだって、伸も叔母さんも特に変わったようなところはなかった。僕が一言も話していなければ、流石に変だと思うはずだ。だとしたらこれはどういうことだ? 伏郎さん――彼の耳にだけ、僕の声が届いていないとでもいうのだろうか?
僕が必死に会話の《次》を、何を質問して、何を弁解して、何を確認して、何を釈明して、何を弁明すれば良いのかと考えているうちに、彼は何か気づいたようにお辞儀をする。
「いえ、失礼いたしました。お耳汚しを――聞くに堪えない戯言でございます。どうかお忘れください」
忘れろだなんて言われても、忘れられるわけがなかった。
選択をせず、自分を徹底的に排除したがる彼が、自らの意思で僕に質問してきた。本来するべきではない自らの意思での質問――それに気付いて質問を取り止めたようだが、彼にとってこれは、それほどの異常ということだ。今までは彼から僕へと与えられてきた不和や違和を、今度は僕が彼へと与えている。そしてそれは鏡に写すように僕へも違和や不和を与えていた。
「もうお疲れでしょうから、ごゆっくりとお休みください」
言って彼は、さっきの質問など元からなかったとでも言うくらい自然に、階段を降りていった。
その後には僕だけが残される。
彼は、気にならないでいられるのだ。気にしないで、気に留めないでいることができる。自分というものを排除した彼は、自分の持った疑問や違和感をなかったことにして、元に戻ることができる。
自分を守るために、自分を殺した彼には。
だからそんなことが――違和や不和を飲み込むことができる。不和や違和を飲みこめずにいる自分を、なかったことにできる。
本来は、僕だってそうだったはずなのだ。さながら小説や漫画のモブキャラクターのように、異常や不安に翻弄されて――流されて、この状況にだって無理矢理折り合いをつけて――つけられなかったとしても、物語は勝手に進行していって、主人公の様な誰かの陰で殺されるか忘れられるような、それが《僕》なのだ。
でも今の僕は違った。体や行動は流されても、意識は流されない――流されたくない。
伏郎さん――彼を《僕》のようだと形容したけれど、それは逆だった。彼は《僕》であり――僕の行きつく先なのだ。僕は伏郎さんのように、なりきれていなかった。
いつも流されてしまう僕には、自分というものが欠落している――が、まだそれは彼ほどではない。
《僕》の中には僕がいて、流れに対して、歯向かおうと、思うことができる。僕は流されやすい奴ではあっても、流されたい奴ではないのだ。
川の流れに逆らって、その場に居座ろうとする流木は――その木片は、酷く違和感を与えるものだ。周囲に対して、そして自分に対してさえ。だから今の僕はこんなに気持ち悪く、こんなに不安なのだろう。それが嫌ならば、受け入れてしまえばいい。違和も、不和も、違和感も、気持ち悪さも、異常も、非常も、全てを全て、そういうものだと諦めて受け入れて、流されてしまえばいい。
しかしこの状況を打破したいのなら、自分のその足で――足が無かったとしても無理にでも、全てに抗って先に進むしかない。仮に今、伏郎さんを引き留めても追いかけて行っても同じくそれらは無駄なことなのかもしれないけれど。だって彼の耳には、僕の言葉が届いていないのだから。最初は僕のことが見えず、今は僕の言葉が聞こえない。解消したと思えば、次から次へと押し寄せる。
だとしても、そんな奔流に抗わねばならないと思った。
本来の《僕》ならばそんなことしないのだろう。けれど僕は今、それをしようとしていた。
出せ、足を一歩前に出せ。一歩でも抗え。流れに、そんな状況に――抗え。足を出せ、出せ、出せ!
「おいおい。フクを追うつもりなのかい?」
声が――聞こえた。
踏み出そうとした僕の足は元の場所へと戻り、動く力を失う。僕の部屋の前なのか、伸の部屋の前なのか、それとも階下からなのか、聞いたことのない声が、どこからともなく僕の耳に入ってきた。
「違うだろう。《君》はそんなことをする奴じゃないはずだ」
声は続ける。
それは女性の声のようだった。少し低めで、中性的ですらある。
「あぁ、いや、もしかしたら無意識なのか――それともそこまで含めて《君》、なのか」
キラと視界の端で何かが光った気がして、顔を向けると、廊下の奥――伸の部屋の前に一人の女性が佇んでいた。
「やぁ」
彼女はニコリと笑った。とてつもなく美しい女性だった。まるでこの世のものではないような――と形容しても相違ないほどに、その容姿は現実味を帯びていなかった。まるでそういうふうに作りましたとでも言わんばかりの美しさを象ったそれは、強いて言うならば伝説上の人物であるかのようだ。その周囲にはキラキラとした何かが漂っている。着ている服でさえ、古典の書物から引き抜いたかのように煌びやかだ。
「しばらくは何もしないでおこうと思ったけれど、今ので大体わかったよ。《君》の中に君がいるというのなら話は別だ。君がもし、今の君が置かれている状況に付いて知りたいというのであれば教えよう――ただし今はその時じゃない」
大仰な服をヒラリと翻して、彼女は僕に背を向ける。
「君がそれについて確信を持ったときに――これだ、と思った時に、またここに来たまえ」
言うと彼女は、姿を消した。まるでその光の全てを遮断したかのように、一瞬にしてその姿は見えなくなる。
あまりにも強大すぎるその流れは、変わろうとした一木片を押し流してしまうのに十分だった。




