018.ゴミ出しとダメ出し
018
伸とのレースに完敗しつつも家にたどり着いた頃には、もう日も暮れて空に黒が色づき始めていた。家のインターホンを押すと面倒そうにトットッと歩く音が廊下の奥から響いてくる。
十中八九の確率の下に玄関の扉を開けたのは伸だ。
「あ、外の方がちょっと涼しい」
流石の彼女でも無尽蔵の体力を有しているわけではない。帰ってきて疲れたのか、ワイシャツのボタンを二つ開けて、気だるげにパタパタとその内に空気を送り込んでいた。いくら家にいるからってそんなあられもない……と思っているうちに、彼女はしびれを切らしたように玄関の扉から手を離し、奥へと引っ込んでしまう。閉まりきるまえに扉に足をかけ、グイと引っ張り開けて家の中へと入った。
確かに彼女の言う通り、果たして、中の空気は外のそれよりも濁っていた。
不快感に顔を歪められつつも、ジュウという音に引かれてリビングに顔を出す。すぐ目の前に置かれたソファに伸が横たわっていた。彼女の下半身はこちら側に向けられ、足をパタパタと上下させている。
「暑いー、ママー、エアコンつけよー」
彼女にとって僕は何なのだろうか――いや、運搬係なのか。
少なくとも男としては見られていないようだった。スカートの中の黒が彼女の太ももが揺れ動くにあたって現れたり消えたりする。スパッツではあるのだが、しかし……。
「暑いんなら動かずじっとしてな! あたしの部屋から扇風機でも持ってくるかい!」
ジュウッと、左手で炒め物を右往左往させているのは叔母さんだ。伸が寝転がるソファに座ったとして、向かって真後ろ――つまりリビングに入って左側。食卓を過ぎ、控えめのカウンターキッチンの奥で、エプロン姿で夕食を作っていた。
因みに伸が寝転がるソファに座ったとして、向かって正面――つまりリビングに入って右側には三十インチほどのテレビが置かれている。映し出されるのは――見たことはあっても見たくなるようなことはない、微妙な番組だ。伸も叔母さんも、見るために点けているわけではないのだろう。まだ七時前だから仕方ないか。
「おう、おかえりゲンちゃん! 学校は楽しかったかい!」
叫ぶような声になっているのは、どうやら料理音に負けないためらしい。
「そういえばシン! 今日のゴミ捨てまだしてないだろう! 頼むよ!」
「今日はゲンちゃんだよーん。私じゃないでーす」
「そうかい! じゃあゲンちゃん! 頼むね! ゴミはあたしの後ろにまとめてあるから!」
言って叔母さんは、顎でキッチンの奥を指した。
* * * * *
日が落ちるのは早い。暮れ始めてしまえばあとは一瞬の出来事だ。時の流れを感じるこの時間帯は、言いようのない儚さが僕の胸の内から溢れてくる。
などと言っている場合ではないのだった。
道を覚えていない僕に、どうやってゴミ捨て場まで行けと言うのだろうか。今から家に戻って伸に聞いても良いのだが、彼女のことだ――きっと二、三、僕を馬鹿にするようなことを言ってくるだろう。僕に落ち度がないのであれば気に食うが、僕に落ち度があって責められるのはなんとなく気に食わない。――気に食うってなんだ。
外には出さない、捻くれた僕の性格が露見してしまった。今更か。
とにかく、つまらなくても意地は意地である。ここから家に戻って道を聞くなんてことはできない。覚えていないなんて言っても、完全には覚えていないというだけで、おおまかな道筋は大丈夫、のはずだ。
家を出て、目の前の一本道を学校側へ向かって歩き出す。たしか途中で右に曲がるのだったか。いや、右に曲がったのは帰りのことだったかもしれない。だとしたら曲がるべきは左だろう。郵便ポストが目印だったか? えーっ……と……。
駄目だ。一度帰って伸に道を教えてもらおう。
――もうゲンちゃんはほんっとうに駄目だよねー。幼稚園児のお使い以下だよ?
彼女の声で再生されたそれは、十分に可能性のある言葉だった。悔しいが、しかししかたない。
今来た道を逆戻り――一本道を駅の側へと引き返すために振り返ると――僕は何かにぶつかった。
ノーだった。
風下にピタリと付いて回っていた彼が、驚いたような顔で僕の目の前に立ちすくんでいた。彼にぶつかって転んでしまった僕は、ズボンをパタパタと払いながら立ち上がる。
なぜ彼が、ここにいるのだろうか。
風下曰く《一人じゃなんもできない》らしい彼は、いったい一人でなにをしているのだろう。
そもそも――と僕は彼との初対面を思い出す。避けてもぶつかられ、僕のこと自体が眼中に無いようなあの態度、挙動――きっと彼には、僕の姿が見えていないのだ。酷く滑稽で、夢見がちな、気持ちの悪い、現実として許容したくない推論だったが、それを否定し得る要素は、今のところの僕には無い。
目の前のものに対してあんなことは、たとえ意図的に無視しようとしていても難しいはずである。
この考えが正しければ、今彼は、見えない何かにぶつかったように感じているのだろう。初対面のときもしていたその驚き顔にも納得だ。
周囲を見回すようにして、誰もいないと確認した後に、彼はまた元の表情に戻る。そして当然のように、落ちていたゴミ袋を手に歩き出す。
なんだ――なんなのだ。
状況に付いていけない頭は無視して、僕は何とか立ち上がる。本当に彼は僕のことが見えていないのかとか、なぜ彼が僕の持ってきたゴミ袋を持って行ってしまうのかとか、全然わからなかった。しかし僕はその状況に意を唱えることができず、彼の後に付いて行く。そういう状況だと、思ったからだ。そういう流れだと、思ったからだ。
それが、僕だった。
* * * * *
帰り道を確認しながら彼の後ろについて行くと、すぐにゴミ捨て場へと到着した。さっきいた場所から角を二つ折れただけで着いた。迷っていた自分が馬鹿みたいだ。
ゴミ袋をスチール製のボックスに入れると、すぐさまノーは来た道を引き返す。
――来た道を引き返す?
どうしてだ。風下の家はたしか、そっちの方向じゃなかったはずだ。僕も正確に彼の家の位置を知っているわけではないが。
ノー――彼は、風下の家へ行くわけではないのか?
だとしたら、一体どこへ――
* * * * *
ノーの進むままに来た道を引き返してたどり着いたのは、僕の家だった。正確には僕が居候している屈家だが、そんなことは些事だろう。
彼の迷いのない足取りは門扉を超え、インターホンへと手をかける。
まさかこんな時間に、遊びに来たなんていうつもりではないだろう。だって、彼には僕が見えていないはずなのだから。
ふと、異様な日常を受け入れて、流されてしまっている自分に気付いて、胸が詰まる。
僕の胸とは関係なく、滞ることなく、詰まることなく進行する状況はついに家の扉を開け、伸の声を再生させる。僕の混乱を加速させるかのような――ダメ出しのような一言を。
「あ、おかえり、フク兄」




