016.風上に置けぬもの
016
「え? 千さん?」
翌日――入学してから三日目の水曜日、僕は登校するなりクラスの書記である榎さんの机へと直行し、係決めの表を見せてくれるようお願いした。
当然、そこに千さんの名前があるかを確認するためである。
榎夏木――出席番号は七番にあたる、僕の列の一番前の女子だ。その風貌は適度なスカート丈といい、高い位置で括った三つ編みといい、そして、ただ校則を守っているだけではなく、活発な感じも持ち合わせているところといい、いかにも委員長といった感じだ。勿論、制服はそのイメージ反することなくセーラー服。
眼鏡をかけていないのは少し残念だが。
開口がクラス委員長になったことで内心歯がゆい思いをしていたのかもしれない。まぁ、あんな元気よく一番目に後先考えず立候補されたら、対立するのにも勇気がいるということなのだろう。
彼女は、立候補の出なかった委員長職に、クラス全員の推薦によって選ばれるような人間に見えた。
「千さんの名前なら、私書いたわよ。わかりやすい苗字だもんね」
その言葉は捉えようによっては差別的なニュアンスだと取られても不思議ではなかったが、彼女の静かな微笑の下では全く嫌味な感じを持っていなかった。
彼女はクリアファイルから一枚の紙を取り出し、己の仕事を再確認し、さも、千さんの名前があることを確認したような満足気な表情でその紙を僕に手渡す。
「はいこれ。一応確認してくれる? 清書したやつは昨日先生に渡しちゃったから、メモ書き程度だけど。済んだら返してね」
その紙には――メモ書きだなんて言いながらも、それぞれの委員会、係、それぞれに対応した各クラスメイトの名前が丁寧に書かれていた。
しかし――委員長にはなれなかったけど書記として頑張ります、という意気込みの感じられるほどに丁寧にまとめ上げられたそのメモに、やはり千さんの名前は無い。
名前の数は三十五。やはり、幽霊の名前が書かれているとか、代わりとなる三十六人目がいるというわけではない――本当にただ、彼女の名前が書かれていない。それだけだった。
「え? 無い? そんなはずないわよ。昨日だって福井先生と確認して――」
机の上に戻されたメモを見直してすぐ榎さんは言葉を失う。
無い眼鏡をクイと押し上げる動作をしながら、彼女はそれを二度三度見直す。実はコンタクトなのかもしれない――とか言っている場合じゃないな。
「っえ、本当に無い……」
おっかしいなー、という顔で彼女は教室後方の千さんの元へと向かう。
今日も千さんは一歩引いたところで髪を垂らして読書をしていた。
* * * * *
結局、榎さんが福井先生にそのことを報告し、千さんは庶務係に入るという結果に落ち着いた。
係の中では最も人数が多く(他は二、三人であるのに対し、庶務係は六人)、それだけに一人少ないことに気付かなかったと。他の五人の庶務係もそれに気付いていなかったこともあって、しょうがなかったという曖昧な空気のまま、この件は幕を閉じた。
仮にそうだとしても大変失礼なことをしました、と、先生は千さんに対し、誠意を込めて謝っていた。
――誤っていた。
クラスメイトのほとんどが納得してしまったこの事態に、少なくとも僕は納得していなかった。さっき僕は千さんの名前があるかを榎さんに質問して、彼女はそれをふまえたうえでメモを確認したはずなのに、その異常を――メモに千さんの名が無かったことにこれっぽっちも気付かなかったのだ。
おかしかった。可笑しかった。
おかしいのは僕なのだろうか、彼女なのだろうか。
それとも――
* * * * *
その後一日、六限まである授業を、僕はボーッとすごしていた。違和と不和とにあてられて、少し疲れてしまったらしい。
そもそもどの授業も初めての授業なのだ。それぞれ教育方針やら採点基準やら学習計画やらを滔々と述べているだけで、授業らしい授業なんて六限目の数学の整式の範囲くらいだけだった。
数学の理論部分は好きじゃない。
ただ、担当教師が授業の終わりに黒板を消しておいてくれたのには助かった。僕の仕事が一つ減る。
都合三度目となる帰りの号令で、今日も再び放課後が訪れる。
終わると同時に一定数の人間がドタドタと駆けだして行った。昨日あった部活動紹介のもと、仮入部にでも行くのかもしれない。
「よー、鏡君。どっか仮入部行かない? やっぱどっか入っとかないとさー」
気だるさを含んだ声で僕に話しかけてきたのは、当然と言えば当然だが風下だった。僕以外に話し相手はいないのだろうか。
「鏡君、なんか失礼なこと考えてない? 俺にだって友達はいるよ」
確信もなしに適当に言っただけですよ、程度のノリで核心をついたような台詞を漏らしつつ、彼は僕の右隣――もうおなじみとなってしまった千さんの席へと座る。
いつの間にか千さんは帰ってしまっていたようだ。全く気が付かなかった。
「鏡君は中学んとき何部だったわけ? ……あーいや、言わなくても大体わかるわ。でも高校ではなんか入った方が良いんじゃない? せーしゅんしようぜ、せーしゅん」
お返しと言わんばかりに勝手に失礼なことを(間違ってはいないが)考えながら、彼はにやにやと僕のことを見る。
彼は、なんなのだろう。
最初の頃の印象と、全然違うような。いや、初対面が三日前だというのに《最初の頃の印象》もないだろうが。
遊びに誘ってはくるが、それ以上はしない。
他愛もない話はするが、それ以上は聞いてこない。
部活動には誘ってくるが、特にどこに入ろうと勧誘はしてこない。
一本の線を引いてそれ以上は関与しない、という彼なりの対人関係の築き方、なのだろうか。
いや、そうだとも言い切れない。月曜日の別れ際の《俺の前じゃ、もっと――》という言葉。それは僕に対して《一線を越えて来い》という意味にもとれる。
いったい彼は何をしたくて――何をさせたいのだろう。
「ふーん、じゃ、しゃあねえな。誰だか知らんが、よろしく言っといてくれよ。じゃな」
はっと我に返ると、彼はひらひらと手を振りながらドアを開けて教室を出るところだった。
どうやら僕は一緒に帰る人がいるとでも言って断ったのだろう。嘘ではないし、伸と一緒に帰るという約束が先約であるから仕方のないことだが、少し後味が悪い。
そんな思考を踏み荒らすように、昨日と同じような足音を響かせながら伸が僕のクラスへと駆けこんでくる。
「ゲンちゃーん! いるー? いるよねー?」
という台詞も全く同じだ。もし教室に誰か残っていたらどうするつもりだったのかというような大声が教室に響き渡ったのも同じ。
ただ一つ違ったのは、今日はまだ十人弱の生徒がクラスの中に残っていたということだけだ。
教室中の注目を掻っ攫った彼女はほとんど気にする様子もなく、そのまま一直線に僕の机へと歩いてくる。
「ゲンちゃん! かーえろっ!」
なんということだ。辱めを受けるのは、彼女ではなく僕なのか。
彼女に引きずられるがまま、僕は深々と突き刺さる視線から逃げるように教室を後にした。




