012.自己紹介と事後障害
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考えてみればそれは不思議なことではあっても、異様なことではなかったのだろう。
実際に起きたことといえば――本当に実際のところで言うならば起きてすらいないことといえば、入学式で隣の席になった女子とクラスが一緒で、ついでに言えば席も隣だったというだけのことだ。状況が状況ならば運命的だと恋仲にでもなる状況なのかもしれない。そこまでいかずとも、さっきはどうも、くらいの会話があったっていいはずだ。
でもここでは違う。明らかに何かが違った。勘違いとか思い込みとか偶然とかとは全く意を異にした――異を異にした状況であるように、感じられた。
僕はこの席に着く前に、彼女の座る席の真後ろを通っている。それだけではなく、教室に入ってから一度や二度はこの目に捉えているはずで、どころかこの席に着いてからも右隣の彼女を視認する機会はあった――はずなのに。
僕は気づかなかった。
そのことがどうしようもなく、気持ちが悪かった。
気付いて当然のことに気付かなかった自分に向けてか、それともなにかわからないなにかに向けてか。ただなんとなくというだけの理由で――この状況に対して、相対して、気分が悪くなった。
だが勿論、《入学式のときと同じ娘が気付かない間に僕の隣にいて気持ち悪いので帰ります》なんていう理由で早退できるわけもなかった。いつに限った話でもない。
そんなことを考えている間に、いつのまにか教壇に立っていた担任教師と思しき男性がHRを始めようとしていた。――教室の二、三あった空席も既に埋まっている。
柔和そうな顔に、自然にふくよかな体型、五十代前半と思しき彼は福井と名乗り、早速、と教室に整列して座る僕達に向けて自己紹介を求めた。
「一年間を共にする仲ですから」と発せられる声にも、その外見と相違ない優しげな響きがある。
えー、と笑顔混じりにざわついた教室も少しして再び静けさを取り戻し、出席番号一番――教室左前方の生徒から自己紹介が行われる。出席番号は中学のときと違って五十音順で決められているらしい。
《鏡》の苗字を持つ僕の出席番号は十二番だった。
趣味はサッカーで――、やら将来の夢は――、やらの自己紹介の中、早くも僕の順番が来てしまう。周りの大勢に比べて、誰に対しても第一印象となる自己紹介だ――が、まぁ教室中から拍手喝采が貰えるような小粋な自己紹介ができるわけもない――少なくとも《ゲンちゃん》なんて呼ばれないくらいの自己紹介をしなければならない。なんて四苦八苦しても、伸はお構いなしに《ゲンちゃん》と呼んでくるのだろうが。
* * * * *
気付いたときには、三つ四つくらい後の生徒が自己紹介をしていた。
あれ。
目立たないように――といっても最後列の僕がキョロキョロしたところでほとんど目立たないだろうが、周りを見回してみても、特におかしな様子は無い。僕はいつから二重人格になったのだろうか。まさか自己紹介程度で記憶が飛ぶほどに緊張していたなんてわけはないだろうし。
隣から聞こえたガタリという音で我に返る。《彼女》の自己紹介だ。
「千零です。趣味は読書です」
と、決してか細い声ではない――敢えて言葉にするならば、何も残らないような声で、彼女はその自己紹介を終えた。下手をすれば、その自己紹介があったのかどうかさえも思い出すことが危うくなってしまいそうなほどに、朧げな声。他の生徒に比べて短いとも感じたが、実際、自己紹介なんてこの程度で十分なのかもしれない。
せんのれい――なんというか、僕に負けず劣らず珍しい苗字だった。千なんていう苗字、利休くらいしか知らない。零という名前も同じようにあまり聞いたことがなかった。そういう名前って、市役所に止められたりしないのだろうか。
右端最後列までの生徒が自己紹介を終えたところで丁度良くチャイムが響き渡る。時計の針は十一時五十分をさしていた。
ポン、と区切りをつけるように福井先生が手を打つ。
「はい。ありがとうございました。皆さん良い生徒さんみたいで、先生ほっとしています。……えぇと、今日は午前で終わりですから、これで解散となります。明日は授業で使う教科書などの受け渡しが行われます。もうすでに親御さんから代金は受け取っていますので、今日のようにお金を持ってくる必要はありません。以上です」
じゃあ開口君、と出席番号一番の生徒に促して帰りの挨拶が行われ、僕の学校生活――その一日目は幕を閉じた。あまりにも早い終幕だった。知り合いもいないというのに、午後の時間をどう潰せと言うのだろうか。
そんな僕の不満とは裏腹に他のクラスメイト達はもうすでに五、六人のグループを作って教室を出ていくところだった。
話の流れからして、僕は伸と一緒に帰るんだろうなと思っていたのだが、彼女は僕と違って昔からこのあたりに住んでいるのだ。同じクラスになった友人と、駅前の喫茶店とかファストフード店にでも繰り出したりするのかもしれない。そうなると僕はお払い箱だ。
自転車で通学してきたであろう友人と彼女が並んで走るというのは、なかなかに滑稽な光景になりそうだった。今朝の自分を思い浮かべて苦笑する。
なんにせよ、入学初日から仲睦まじい親友ができるなんて考えていなかったが――
「よーう、鏡君」
鞄を持って席を立とうとしたところで、右隣の席に座っていた男子が声をかけてくる。もちろん千さんではない。彼女は号令が終わるとすぐに教室を出て行った。
だから目の前で千さんの席に座っている彼は、彼女以外の僕のクラスメイトということになるのだろう。当然だが。
「《鏡》って珍しい苗字だよなー、あ、俺、風下ってんだけど。出席番号は鏡君の二つ後」
全国的には知らないが、この学校では比較的珍しいであろう、髪を薄い金色に染め上げた彼はそう名乗った。背は僕より少し高いくらいで、よく見たら左耳に小さめのピアスを付けていた。そして着ている制服はワイシャツの上に薄手のカーディガンを着崩す、というかたち。僕もそういう制服を着たかった。しかしそんな見た目とは裏腹にその声は存外中性的で透き通っている。
「俺の名前聞いてなかったっしょ? 鏡君、自己紹介終わってからしばらく、なんか心ここにあらずって感じだったし。友達いなくって緊張してんのか知らんけど、さっきの自己紹介も、酷かったよねー。もうガチガチ」
そんなわけはないと思っていたが実は自己紹介程度で記憶が飛ぶほどに緊張していたらしい僕に対して、嘲るような笑みを浮かべつつも彼は拳を突き出してくる。殴りかかってきたわけではない。どうやら友好の証を示したいようだった。
「ま、これからよろしく」
鏡、なんていう珍しい苗字が目に付いたのか、それとも金を工面する手段として、クラスの端っこに居た僕を利用しようとでも思ったのか。敢えて誘いを蹴る理由が無かったから、その誘いに僕は快く――ないだなんて微塵も気取らせないように、握り拳を作って差し出された彼の拳にぶつける。
どうやら高校でも、僕は不良に好かれてしまうようだった。




