ホットミルク
あの人は私と違う部屋で寝る。
結婚してから今日で10日目。
最初の数日こそお仕事で忙しいのかな、と思っていたけど、恋愛結婚じゃないにしてもこの扱いはひどいと思う。
いや、別に一緒に寝たいわけじゃないんだけど、なんて心の中で言い訳していたのは初めの3日間だけ。
次に苛立ち、そして今は焦燥だ。
私と旦那様は特筆するようなことでもないけれどお見合い結婚だ。
恋愛結婚は時間がかかる。
結婚にこぎつけるまでの時間も、お世継ぎを誕生させるまでの時間も。
つまり恋愛結婚では得られないメリットがお見合い結婚にはある。
そして旦那様のような美貌を持つ方がお見合い結婚をなさるということは、そのメリットを求めていらっしゃった、はずなのだ。
なのに!一夜も床を共に過ごしたことがないなんて!そこまで私に魅力がないの?!
……このままだと結婚生活も長くはもたないかもしれない。
現代で離婚経験済みなんて悪評もいいとこだ。生きていけなくなる。
だから、旦那様の子供を私は産まねばならない、んだけど。
(私はこれからどうなるんだろう)
旦那様が帰ってくるのは私が寝室に入ったあと。
私だって最初は旦那様を待っていた。
でも、侍女から預かったのは「10時までに僕が帰ってこなかったら寝ていてくれ」と言う言葉。
それを聞いて少し生まれた「私のことを思って」なんてときめきは、帰れないことを見越しての言葉だと疑う気持ちに変わった。
最近疑っているのは、帰れない問題が女絡みでの帰れない問題、なのではないかということだ。
「ほんと、これからどうなるんだろう」
蝋燭はもう消えていて、どこになにがあるかわからないほど部屋はくらい。
暗い部屋は、実は苦手なのだ。
不安が助長される気がする。
暗い部屋が苦手、というより暗い部屋に1人は苦手と言った方が正確かもしれない。
ずっと目を開けていたらだんだん周りが見えるようにはなるものの、やっぱり1人は怖い。
夜は1度恐怖を感じてしまったらダメだ。眠れなくなってしまう。
私は手探りで前に障害物がないか確認しつつ、暗闇からの出口を目指した。
扉を開くと光が目に飛び込んできて思わず目を瞑る。廊下にはまだ蝋燭の光が灯っていた。
さすがにみんな寝ているなら明かりは消されるだろう。
どうやらそんなに夜は更けていないようだ。
ホットミルクを作って飲もうと、てくてく厨房へ向かう。
昼間よりも明かりが弱いからか、見慣れた鮮やかな赤の絨毯が真紅に見える。
一つ一つが大きな窓も今はカーテンに隠されている。
絨毯で足音は消され、歩いても歩いても景色が変わらない。
移動した感じがしない。昼とはまるで違う感覚にわくわくする。
それでもしばらく歩いていると、広い階段と大きな広間に出た。玄関ホールだ。
お屋敷に迎えられて10日。さすがに迷うことはなくなった。
最初の頃はトイレに行くのにも一人で迷って大変だったわと思わず言葉が漏れた。
厨房に来るまで侍女達も見ることも、出くわすこともなかった。
こんなので大丈夫なのかな、と思いつつ厨房の電気をつける。
曇りや水滴のひとつもない調理台が光に反射して輝いた。
私は少し瞬きしたあと、私は早速ホットミルクを作るための材料を探すことにした。
「えっと、計量カップと牛乳と片手鍋。それからはちみつに……。」
こんなところでホットミルクを作るのは少し躊躇われるけど、私の睡眠のために犠牲になってください!
冷蔵庫(動力は魔力)を開くと牛乳が2種類。蜂蜜が9種類。
どうしよう?一つだけたくさん減ってたら怒られるかな?
全部取り出して、少しずつもらっていく。
気分は泥棒です。
鍋に牛乳を入れて沸かしていると、膜がでてきたのでペイっと捨てる。
沸いたホットミルクをコップに入れて、蜂蜜を入れた。
使った調理器具は流しに置く。
流しにはさっきより面積の広くなったタンパク質と、汚れた調理器具たちがあった。
あとでコップと一緒に洗おう。布巾が見つからないから拭けないけど。
コップを持って、テーブルに向かう。
「この匂い、久しぶりだなぁ」
少し入れた蜂蜜が甘くていい匂いで、おいしい。
これは、眠れない夜によくお母様が作ってくれたものだから、安心できる。
あの頃は良かったと過去を惜しむ。
ここの人たちには、私が眠れない夜を過ごすことすらいっていない。
言う機会がないというか、話す機会がないというか、迷惑をかけられないというか。
人間関係って難しいよなぁと呟いて、テーブル前の椅子に座った。
途端、ふわりと芳しい香りが鼻をかすめる。どこかで嗅いだ匂いだ、と眉根を寄せた。
「ローリィ?」
それは10日ぶりに聞く声。
テーブルを挟んだ向こう側には、旦那様が座っていた。驚きでどもる私に旦那様は微笑む。
よく見ると彼はぼろぼろだった。
10日前結婚式で見た、長くて綺麗なプラチナブロンドを後ろで一つにまとめ、白いネクタイを締め、ジャケットを着て私の隣にいた旦那様の面影はない。
……ぼろぼろでも中から溢れる素敵さは旦那様を輝かせているようだけど。
「旦那様、お仕事お疲れ様です。おかえりなさいませ。」
座っての挨拶もなんだか失礼な気がして立ち上がろうとする。
旦那様は手で、そんな私を制した。
「いや、大丈夫だから座って。ローリィは夜更かし?」
ふふ、と笑う旦那様を見て、この人に初めて私は名前を呼んでもらえたことに気付く。
そして、私が初めて旦那様と口にしたことにも。
「夜更かしというか、その、少し、眠れなくて。」
飲み物を作ったんですと言うと、そんなものは侍女にさせておけばいいのにと笑った。
なんでもベッドそばのベルで侍女はいつでも飛んでくるらしい。
流石に夜は休んでほしいと思い「夜中にそんなことをするのは憚れます」と口にしたら、旦那様は目を見開いた。
?夜中に次女を呼びつけるほどに私は我が儘そうなのだろうか?
確かに目が少しつり目がちで、よく「気が強そう」なんて言われたりはするけれど。
旦那様とあまり話したことはないし、きっと見た目にそう思わせる何かがあるんだろう。
目とか、言葉遣いとか……?なんだか悲しくなってきた。
「旦那様、それは?」
しばらく考え込んでしまったのだろうか。ふと見あげると、旦那様はコップを手にしていた。
どうやら、ここで何かを飲むらしい。なかに何か入っているようだ。
コップの中身を覗き込むと、薄茶色く透き通った液体だった。近づくとアルコールの匂いがする。
さっと自分の近くにコップを寄せる旦那様。
……飲みませんよ?
「実は……僕は酒を飲まないと眠れないんだ」
「あ、私もです。眠れない夜はこれを飲まないと眠れません。。甘くて美味しいですよ。」
カップをもちあげながらそう言うと、旦那様は少し興味ありげにカップの中の、白い液体を見た。
飲みますか?というと、少し舐めて、顔を輝かせた。
今度僕が眠れない時にでも作ってほしいなと笑って、私は笑って頷いた。