乙女ゲーに転生したかった50歳がギャルゲーの嫌われヤンキーに転生したらわりと上手くいった
俺って、昔から没個性だったよなぁ――。
八月三十一日。五十歳になった俺は、マンションの屋上から飛び降りた。
盆が明けた頃に会社を解雇され、これで何社目だったかもよく覚えていない。学生時代から人付き合いは苦手で、仕事に就いても細かなミスを繰り返し、少し慣れてくると別のことに気を取られてまた失敗する。何かに夢中になって寝ることさえ忘れる時期があったかと思えば、ある日突然どうでもよくなって放り出す。そんなことを繰り返しているうちに、気づけば五十歳になっていた。
女の子と付き合ったことは一度もなく、高校を出てから友達と呼べる人間もいない。両親はまだ健在だが、いつの頃からか俺とはほとんど口を利かなくなり、たまに実家へ顔を出しても歓迎されているとは到底思えなかった。
別に大悪党だったわけじゃない。誰かの人生を滅茶苦茶にした覚えもないし、世間を騒がせるようなことをしたわけでもない。ただ、五十年間生きた結果として何が残ったのかと考えてみると、自分でも驚くほど何も思いつかなかった。
「……あっ、続き読んでから飛び降りりゃよかったな」
最後の最後に思い出したのは、昨日まで読んでいた悪役令嬢もののWeb小説だった。
婚約者だった王子に捨てられた令嬢が、これ幸いと王都を離れて田舎へ移り住み、面倒な貴族社会から距離を置いてスローライフを始める話だ。
畑を作ったり、料理をしたり、気の合う仲間と笑ったりしながら暮らしているうちに、いつの間にか前よりずっと幸せになっている。
俺もそんな人生なら、もう少し上手くやれたのかもしれない。
もし本当に転生なんてものがあるのなら、次はああいう世界がいい。悪役令嬢になるのはさすがに勘弁してほしいが、物語とは関係のない田舎のモブにでも生まれて、畑でも耕しながら静かに暮らしたい。
五十歳にもなって最後に考えたことがそれなのだから、我ながら締まらない人生だった。
◇
次に目を開けた時、俺は白い天井を見上げていた。
鼻につく消毒液の匂いと、身体中から伝わってくる鈍い痛みからして病院らしい。一瞬、本当に助かってしまったのかと思ったものの、身体を起こそうとしたところで妙な違和感に気づいた。
腕が細い。それだけではなく、五十年間使ってきた自分の身体とは重さも感覚もまるで違う。手の甲にあった染みも消えており、視界の端には見覚えのない金色の髪まで垂れていた。
「まさか……助かっちゃったのか?」
自分の身体を確かめようとしたところで、病室の扉が勢いよく開いた。
「おいっ、飛呂斗! 大丈夫か!?」
飛び込んできた男を見て、俺は身体の痛みも忘れて固まった。
立派なリーゼントに剃り込みを入れ、紫色のシャツにやたらと太いズボンを穿いている。俺が高校生だった頃ですら絶滅しかけていたようなヤンキーが、なぜか満面の笑みでこちらへ近づいてきた。
「ったく、無茶しやがって! 二百キロで海へダイブして生きてるなんて、やっぱお前は無敵な!」
男は嬉しそうに俺の肩を叩いているが、何を言っているのかさっぱり分からない。俺はマンションから飛び降りたはずなのに、こいつの話では車かバイクで海へ突っ込んだことになっている。それ以前に、さっきから俺を飛呂斗と呼んでいるのもおかしい。
「俺?誰……?」
「はあ!? 頭まで打ったのかよ!」
男がさらに顔を近づけてきたところで、騒ぎを聞きつけた看護師が病室へ入ってきた。
「こらっ、もう面会時間過ぎてますよ。矢崎くんも大怪我してるんですから、騒がせないでください」
「へへっ、お姉さん! ソイツはメンゴメンゴ!」
今どき聞かない謝り方を残し、男は看護師に追い出されていった。
病室に静けさが戻ってからも、俺は看護師が口にした名前を何度も頭の中で転がしていた。
矢崎。
飛呂斗。
聞き覚えがある。かなり昔の記憶なのに、その妙に格好をつけた名前だけはどこかに引っかかっていた。
身体の痛みに耐えながらベッドを降り、壁伝いに洗面台まで歩いて鏡を覗き込んだ瞬間、その理由が分かった。
そこに五十歳の俺はいなかった。
金髪に細い眉、見るからに喧嘩慣れしていそうな鋭い目つきに、頬には古い傷まで残っている。十六歳くらいの少年の顔だったが、初めて見る顔ではなかった。
むしろ、何度も見ている。
「……矢崎飛呂斗」
名前を口にした途端、記憶が一気に繋がった。
まだ俺が若かった頃、かなり遊んだギャルゲーがあった。
『ときめき☆スクールライフ』
高校を舞台にした、ごく普通の恋愛シミュレーションゲームだ。勉強したり、運動したり、女の子とデートしたりしながら好感度を上げ、卒業までに意中のヒロインと結ばれる。当時は結構ハマっていて、何人ものヒロインを攻略した覚えがある。
矢崎飛呂斗も、そのゲームの登場人物だった。
ただし主人公でもなければ、主人公を助けてくれる親友でもない。当然、恋愛に関わるような重要人物でもなかった。
学校一の嫌われヤンキー。
ヒロインに絡み、主人公に喧嘩を売って返り討ちにされ、それでも懲りずに問題を起こした挙げ句、最後には学校から消える。そういう役回りだった。
俺は鏡の中にいる男をしばらく眺めてから、大きく息を吐いた。
「悪役令嬢じゃねえのかよ……」
死ぬ直前まで読んでいたのはそっちだったのだから、どうせ奇跡が起きるなら少しくらい融通を利かせてほしかった。
華やかな貴族社会から離れて田舎でスローライフどころか、ここは昔の日本をモデルにしたギャルゲーの世界で、俺が転生したのは攻略される側ですらない嫌われヤンキー。しかも、どうやら転生直前の飛呂斗は二百キロで海へ突っ込むという、とんでもない事故まで起こしているらしい。
人生二回目にしては、随分とスタート地点が悪い。
◇
退院して学校へ戻ってみると、俺が想像していた以上に周囲の反応は奇妙だった。
「矢崎、お前最近大人しいな。どうした?」
そう声をかけてきたのは、体育教師の板垣だった。
この男には覚えがある。ゲーム終盤、飛呂斗が退学するイベントにも出てきた教師で、主人公に対しても何かと嫌味を言ってくる、いわゆる嫌われ役だ。
もっとも、最近大人しいも何も、俺は昨日まで入院していたのだから当然である。
「ちょっと身体が痛むだけです」
「敬語?やっぱり退院が早かったんじゃないのか? 無理するくらいなら早退してもいいんだぞ」
思わず板垣の顔を見た。
あれ? こんないい奴だったっけ?
いや、待て。相手はあの板垣だ。ここで素直に早退した結果、欠席日数が増えて退学イベントへ近づく可能性だってある。ゲームでは描かれていなかっただけで、飛呂斗の退学にはこういう細かなフラグが大量に仕込まれていたのかもしれない。
「いえ、身体は動きますし、大丈夫です」
「そうか。ならいいんだが、具合が悪くなったらすぐ言えよ。お母さんに迎えに来てもらうからな」
板垣は心配そうに俺の肩を軽く叩いて去っていった。
危なかった。
矢崎飛呂斗というキャラクター、俺が思っていた以上に退学への道がそこら中に張り巡らされているらしい。ゲームではただの嫌われヤンキーだったが、実際にその立場になってみるとなかなか気が抜けない。
そんなことを考えながら教室へ戻ろうとしていると、今度は後ろから名前を呼ばれた。
「矢崎くん!」
「はい……どちら様でしたっけ?」
振り返ると、爽やかな顔をした若い男が立っていた。
一瞬誰だか分からなかったが、向こうから担任の山口だと名乗られて記憶が蘇った。確か女子生徒からやたらと人気のある教師で、ゲーム中でも女子との距離が妙に近かった男だ。俺が死んだ時代なら、下手をすると一発で問題になりそうな教師だった気がする。
「君に聞いても意味ないかもしれないけどさ?部活どうする?提出がないのは矢崎くんだけなんだ」
桜ヶ丘高校では、特別な事情がない限り何かしらの部活へ所属する決まりになっているらしい。そう言われてみればゲームにも部活を選択するシステムがあり、運動部なら運動能力、文化部なら知力や芸術系のステータスが上昇したはずだ。
さらに、それぞれの部には攻略対象の女の子がいて、同じ部活へ入ればイベントが発生しやすくなる。
だが、俺には関係ない。
ステータスなんて見えないし、そもそも女の子を攻略するつもりがないのだから、好きなものを選べばいい。
「軽音楽部に入ります」
「え? 矢崎くんが?」
山口は目を丸くしたあと、なぜか少し考え込んだ。
「一応言っておくけど、軽音楽部といってもメタルとか、そういう感じじゃないぞ?」
どうやらこの見た目だけで音楽の趣味まで決めつけられているらしい。
しかしそんなことすらどうでもよかった。
前の人生で一度だけ、ベースを弾いてみたいと思った時期がある。楽器屋まで見に行ったものの、値札を見て「こんなもの買ってもどうせすぐ飽きる」と諦め、そのまま五十歳になった。
でも今は十六歳だ。
しかも学校には楽器まである。
人生をやり直せるというのなら、前の俺がやらなかったことを一つくらいやってみてもいいだろう。
「大丈夫です。ベースやってみたいんで」
こうして俺は、二度目の高校生活で軽音楽部へ入ることになった。
女の子とは必要以上に関わらない。ゲームのイベントにも首を突っ込まない。何事もなく卒業するという方針は変わらない。
「矢崎くん、すごいね。五十番より上じゃん」
「へっ?」
横を見ると、吹奏楽部の神崎さんが順位表を見上げていた。
こ、この子は覚えている。ヒロインではないけど、ゲームにも何度か出てきた大人しそうな女の子だ。
「三十二番なんてすごいじゃん。矢崎くんって勉強できたんだね」
「いや、俺も今知ったところ……」
これは本当だった。前の人生では良くても真ん中くらいで、こんな順位を取った記憶は一度もない。
二回目だから多少有利だっただけなのに、神崎さんは感心したように俺の名前と順位を見比べている。
「じゃあ今度、勉強教えてよ。私、数学苦手なんだ」
「俺が?」
「うん。矢崎くんがよければだけど」
そう言って笑うと、神崎さんは友達の待つ教室へ戻っていった。
俺は返事もできないまま、その背中を見送った。
女の子から勉強を教えてほしいなんて、五十年間生きてきて一度も言われたことがない。それどころか、ゲームの矢崎飛呂斗にこんなイベントがあった記憶もなかった。
「……いや、待て。これ絶対なんかあるだろ」
二人きりで勉強する。そこで何かの拍子に身体へ触れる。神崎さんが悲鳴を上げる。そして教師が飛んでくる。
元々こっちは学校一の嫌われヤンキーだ。言い訳なんて誰も信じてくれないだろう。
「危ねえ……退学フラグじゃねえか」
俺は人生最高の三十二位を取ったことより、危険なイベントを事前に察知できたことに満足して教室へ戻った。
◇
放課後、神崎さんは、案の定数学の教科書を持って俺のところに来た。
「矢崎くん、どう?教えてくれる?」
フッフッフ。神崎綾乃。そうは行かないぞ。
この後のフラグがわかっておる。
そして断ったらドンドン好感度が下がるってこともな。
「神崎さん、悪いけど俺、教えるほどの男じゃないんだ。みんなと同じようにあそこにいる桐生院くんにでも教わったほうが身になると思うよ」
「矢崎くん……」
勝った。勝ったぞ!くぅ。これで退学イベントは発生しない。よーし。今日も楽しい楽しいベーシストタイムにでも行ってこよー!
「そっか……残念」
神崎さんは教科書を胸元に抱えると、なぜか少し嬉しそうに笑った。
「でも、矢崎くんって思ってたより優しいんだね」
「はっ?優しい?」
「だって前の矢崎くんなら、桐生院くんに聞いた方が私のためになるなんて絶対言わなかったでしょ? もっと怖い人だと思ってた」
なるほど。以前の矢崎なら、女の子に頼られた時点で下心丸出しで引き受けていたのかもしれない。
危ない、危ない。やはり引き受けなくて正解だった。矢崎飛呂斗ルートは至るところに退学イベントが盛りだくさんではないか。
「じゃあ桐生院くんに聞いてくるね。でも――」
神崎さんは二、三歩進んだところで振り返った。
「今度は勉強じゃなくて、矢崎くんと話したいから話しかけてもいい?」
「……え? うんまあ、それくらいなら」
「ほんと? じゃあ、また明日ね!」
さっきまで残念そうだった神崎さんは、急に機嫌を良くして教室を出ていった。
フッフッフ。
勝った。
勉強イベントを回避したうえ、神崎さんも怒っていない。好感度を下げすぎれば、それはそれで別のイベントが発生するかもしれないからな。我ながら完璧な選択肢だった。
よーし。今日も楽しい楽しいベーシストタイムだ!
俺は意気揚々と軽音楽部へ向かった。
◇
部活が終わり校門へ向かうと、なぜか神崎綾乃が一人で立っていた。
な、なんだとー。
なぜ校門の前に神崎綾乃がいるのだ。
ん?ちがうな。
危ない危ない。勘違いするところだった。
あれは主人公のルートで、神崎さんが待っているイベントだろう。確か一緒に帰って、途中で出てくる選択肢のどれを選ぶかによって好感度が変わるやつだ。
(主人公、頑張れよー)
そう思いながら何食わぬ顔で校門へ向かった。
「矢崎くん!」
「へっ? 俺?」
「良かったら一緒に帰ろ?」
「えーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
まずいまずいまずいまずいまずいぞ、俺。
こんな強制フラグが待っていたとは。つまり、どうやっても退学イベントに繋がっちまうってことじゃないか。
よし、とりあえず話しかけられないように七メートルくらい前を歩くか。
令和のおじさんを舐めるなよ?
絶対に痴漢に間違われない距離ってものがあるのだよ。神崎綾乃。
「プッ……矢崎くん、古いタイプなんだね?」
「はっ? そうですが……」
ヒーーーッ。
七メートルだぞ? 七メートル後ろから普通話しかけないだろ? なんなんだ、この強制イベントは。死亡確定じゃないか。
「なーんか、チャラチャラしている人結構多いけど、硬派な人も好感持てるな、アタシ」
硬派? ノンノンノンノン。
避けているのだよ。この子は。不思議ちゃんか?
どうしたらそういう解釈に……。
そうか!
昔聞いたことがあるぞ。ヤンキーがちょっと良いことをすると、通常の三倍良く見えるという、あの現象か。
「じゃっ、私、こっちだから」
「ん、ああ」
神崎さんは少し歩いたところで振り返った。
「また明日ね」
ギャーーーッ!
明日もだと? 明日もこんな感じで退学フラグを置きにくるのか?
どうしたらスローライフエンドになるんだ、このゲームは。
当時俺がやっていた時は、目的の女の子を攻略できなくて悔しい思いをしたことはあるけど、難しいと思ったことはなかった。むしろ今でも覚えているくらいの良作だ。
しかし、安直に考えていた矢崎飛呂斗ルートはベリーハード過ぎてもはやクソゲーではないか。
流石、矢崎飛呂斗。
恐るべしヤンキールート。
◇
それから三日後。
朝、登校して下駄箱を開けると、一通の手紙が入っていた。
ピンク色の封筒に小さなハートのシール。五十年間一度も見たことのない代物だが、このゲームをやり込んだ俺には嫌というほど見覚えがある。
「嘘だろ……」
『放課後、伝説の焼却炉で待っています。必ず来てください』
「グハッ!」
吐血しそうだと思ったら本当に出てきやがった。
そして全くドキドキもトキメキもせず、名前が書いてなくても待ち伏せしている奴がわかる。
勉強イベントは回避した。一緒に帰ることになっても七メートルという絶対安全圏を維持した。女の子に触れるどころか、二ヶ月間で俺が触りまくったものといえばベースくらいである。
このゲームには《伝説の焼却炉》というふざけたものがある。
昔この学校に、とんでもなく素行の悪い男子生徒がいた。そいつに惚れた女子生徒が卒業式の日、メラメラと燃える焼却炉に吸っていた煙草をポイポイと焼却炉に捨てて待っていると、男は轟音と共に現れ、
「悪い男に惚れちまったアタイを夜露死苦ぅ!」
と愛の告白したところ、当然二人は生涯立派な長距離ドライバーになって、例外なく子どもをウジャウジャ作り、幸せに暮らしたとさ。
そのせいで、いつからか《卒業式の日、火のついた焼却炉の前で告白して結ばれた二人には永遠の幸せが訪れる》なんて都合の良い部分だけ掻い摘んだ伝説になっていた。
俺はまだ一年生で、転生してから二ヶ月しか経っていないんだぞ。また卒業式どころか中間テストが終わったばかりだ。
つまり俺の場合、《永遠の幸せ》ではなく《二ヶ月で退学》の方が圧倒的に現実味がある。
「行きたくねえ……」
しかし、手紙には《必ず来てください》とまで書いてある。
無視して神崎さんの好感度が一気に下がったら何が起きるか分からない。嫌われヤンキーの俺が女子生徒を泣かせたなんて噂が広がれば、それこそ退学フラグになりかねない。
結局その日は、授業を受けても頭の片隅に焼却炉が居座り続けた。
◇
放課後、指定された場所へ向かうと、神崎さんは本当に焼却炉の前で待っていた。
焼却炉には火が入っており、投入口からは、絶対にさっき入れたばかりであろう、半分焼けた少年マ○ジンが覗いている。
風が吹くたびに灰と火の粉が舞い、焼け破れて外に出てきたマガジンの表紙は幕の内の顔が半分焼けてなくなっている。
恋愛イベントの舞台としては最低の雰囲気だった。
さらに悪いことに、焼却炉のすぐ脇には職員用の喫煙所がある。二人の教師が煙草を吸いながら、明らかにこちらをチラチラ見ていた。
嫌われヤンキーが女子生徒と校舎裏の焼却炉で二人きり。そのうえ教師が二人もこちらを見張っている。
どう考えても俺が何かやらかすのを待っているとしか思えない。少しでも神崎さんに触れようものなら、あの二人が煙草を投げ捨てて取り押さえにくるのだろう。
(やる気だ……!)
俺は教師からいつでも見えるよう、神崎さんとの間に密にならないよう十分なソーシャルディスタンスを取って立った。
「ごめんね、急に呼び出して」
「いや……大丈夫だけど」
大丈夫なわけがない。
俺の人生で、女の子からこんな場所へ呼び出されたことなんて一度もない。現実がわかっていない頃の若い時の俺ならまだ勘違いしていたかもしれないが、今の俺は矢崎飛呂斗である。
期待より退学の方が近い。
「矢崎くんってさ、噂と全然違うよね」
「噂?」
「うん。怖いとか、すぐ喧嘩するとか、女の子なら誰でも声かけるとか。でも実際は全然違った」
神崎さんは指折り数え始めた。
「勉強お願いしたら、自分より桐生院くんに教わった方がいいって言うし、一緒に帰ったら七メートルも離れて歩くし、最近は毎日部活に行ってベース弾いてるし」
やはり令和の時代を途中で諦めたおじさんの処世術である七メートル作戦は正解だったらしい。
これだけ証拠が揃っていれば、少なくとも「矢崎に不同意性交罪だ」と訴えられる心配はないだろう。
「それでね……最初はちょっと怖かったんだけど、最近、矢崎くんのこと見てると――」
神崎さんが俯いた。
モジモジと指を絡め、なかなか続きを言おうとしない。
なんだ被害報告ならもっと堂々としてくれ。
その瞬間後ろの大人たちが取り押さえるのだろ。
もし身に覚えのないことで訴えられたら、こっちだって弁護士を頼んで徹底的に争うつもりだ。
俺はなんとしてもこの世界でスローライフを送りたいのだ。
「私、矢崎くんのこと好きになっちゃったみたい」
「「「はっ?」」」
俺と、喫煙所にいた教師二人の声が綺麗にハモった。
「良かったら、私と付き合ってください」
俺はただ――スローライフがしたかっただけなのに。
まさかの二ヶ月で告白イベントだと――?




