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ソルダート・ガイ  作者: 不病真人


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1/1

第1話 Manifestation of Emotion/感情の表れ

 「酒、どうすりゃいいんだよ……」


 掠れた声が、雨の幕の向こうで潰れた。


 そのすぐあと、別の声が差し込む。


 「さっき売ったろ。今日は合成で我慢しろ」


 「合成は喉に残るだけだろ。味はねぇし胃まで冷えちまう」


  会話はそこで終わらない。

 また別の声が、上から押しかぶさる。


 「買うか。新しいクッキングしたぞ」


 「安くしろ」


 「無理だ」


 声が多い。

 一つのやり取りが、雨と人波のあいだで擦れて、すぐ別のやり取りに飲まれていく。

 ここでは、誰も一つの話だけで生きていない。

 売るもの、足りないもの、失ったもの。

 そんな断片を聞きながら、皆が雨の中でぶら下げている。、こんな腐った街から生きる場を蹴り落とされないように、必死に上を目指す。


当然街は眠らない。といっても、それは生の息吹ではなく、機械的な雑音でしかない。

 壁面に埋め込まれた古い広告パネルが、断続的に明滅し、消えた企業のロゴや、意味を失った商品の残像を浮かべている。

紫、青、毒々しい緑。光は雨に滲み、地面を這うように広がっては、すぐに闇に飲み込まれる。

 足音が響くたび、水溜まりが波立ち、ネオンの色を乱す。

もっともそれがなくともこの街は工業の汚染で毒々しい。


 路地は狭かった。

 濡れたコートが行き交い、肩と肩が触れ、フードの影だけが増えていく。顔は見えない。見えなくていい。顔を見たところで、ここでは何も変わらない。


 肩がぶつかった。


 「……悪い」


 短く言って、歩き続ける。

 相手は何も返さない。

 返す余裕がないのか、返す意味がないのか、たぶん両方だ。

 この街では、謝罪はたいていそういうものだった。形だけ残って、実体はもうどこにもない。

視線が歪む。

環境のせいだ。


 雨は酸を含んでいる。

 長く浴びれば布は傷み、皮膚は痛む。

 だから皆、足を止めない。

 立ち止まれば濡れる。濡れれば、余計なことを考える。

 この街の連中は、そんな余計なことに金を払えない。


 男はコートの襟を立てた。

 右腕は義肢だった。

 雨を受けても動作に支障はない。だが冷えは内部に残る。接続部の奥で、鈍い違和感がじわじわと尾を引く。

 歩くたび、靴底が浅い水たまりを踏み、黒い波紋が広がってすぐ踏み潰される。

 路地の端には、雨をしのげる浅い庇があった。


 少しだけ身を寄せる。

 完全に入るわけではない。

 雨の流れから外れすぎると、かえって目立つ。

 煙草を一本くわえ、ライターの火を点ける。風に煽られて一度消え、二度目でついた。


 吸い込む。

 味は薄い。

 舌に残るのは、合成ニコチンの安い苦みだけだ。

合成ニコチン、名はニコチンだが、なんの物質かよくわからない。

 それでも、煙を肺に入れて吐く、その一連の動作は悪くない。

 頭の内側にたまったざらつきが、少しだけ整う気分に浸れる。

その時だけここから俺はいなくなる。


ギシ

 音の方向を見上げると、俺がいる庇の向こう側に古い看板の残骸がぶら下がっていた。

 鉄骨は錆び、ネオンはまばらに光るだけ。

 紫の明滅が、雨粒に細かく砕かれながら、断続的に文字を浮かび上がらせる。


 GARDEN。


 その前にもう少し文字があったはずだ。

 だが、今は欠けている。

しかし長く住んでいる男には一つの名前しか浮かんでこない。


そう、思い当たる名前はただひとつしかない。


 ――クロム・ガーデン。


 男はそれを見て、ほんの少し顔を顰めた。


 くそみたいな名前だ。


庭園。

 育てる場所。整えられた場所。

 そういう意味を持つ言葉を、ここに貼りつける神経が、まず気に入らない。


 企業はこういう名前を好む。

  中身がどうであれ、表面にきれいな語を塗る。

 

そうすれば、壊れた後でも言い訳が立つ。

 最初からこういう場所だったわけではない、と。


 だが実際は逆だ。

 最初からこうなるように作られている。

 安く使い、壊れたら切り離し、下層へ落とす。

 その落ちた先に名前をつける。

 名前があるだけで、場所は一応の意味を持つ。

 意味があれば、そこに人が集まる。

 集まれば、また使える。


 庭園という言葉は、そのための覆いだ。


 そう思った。

 ほんと、名前だけは妙にきれいで、妙に軽い。

 庭だと?

 笑わせる。

 この雨と錆と排気と、売り物になった身体の層に“庭”なんて名を貼りつける神経が気に食わない。


何を鑑賞する、俺たちの苦しみもがく..

ピロ

 義眼に、ちょうどそのタイミングで広告が浮いた。


 《CHROME GARDEN》


 《A NEW PARADISE FOR THE NEXT GENERATION》


  男はもう一度、鼻で笑いかけてはやめた。

「...忠誠....」

脳内にチップこそないけれど、録音など盗聴されるような義体は十分にあった。

だからやめた。だから忠誠を口ずさんだ。

その分

 新しい楽園なんてふざけるな、と内心吐き捨てる。


 広告は、いつだってそうだ。

これじゃプロパガンダとでも名を変えた方がいい。

 なんだって、沈んだ場所にきれいな名前を与えて、沈んだことを見えなくする。

 新しい楽園。

 実際には、企業が上に便利を積み上げるために、下へ押し込んだ残骸の山だ。

そう思えば思うほどに同じ考えを繰り返すだけだ。


 広告は義眼の隅で淡く回転し、最後にこう出た。


 《Now Open》


 オープンするのは店じゃない。

 腐るだけだ、もうタンカスと何が違う、そうか。植物はそれで育つとでも言いたいのか


「ハァ...」

なら、しばらく先はこれだけを見ていた。

 男は煙を吐いた。

 雨に触れた煙は、すぐにほどけて消える。

まるでこの現実から逃げさせることも許さないように。

 まるで最初からなかったみたいにしたかった。


カタ

 歩き出す。


 この街は、歩くほどに姿を見せる。

 最初はシェルターのような住処

 次に死にかけのやつら、コーポレーションどもが看板としておいたが、当然メンテナンスなんてしない。

 その次に、売り物の声。

 最後に、こいつらが。この場所が何でできているかがわかる。


「なんだ、あんた生きてんの」

女の疲れた声がした。


 「感情ログ付きだ」


 「昨日の漏洩分、まだ新しい」


 「義指、いるかい、デュトリーフィンガー入って」


 「部品ならある、まだ動くやつだ」


「チッ、ほら、4500クレジットってところね」

 物と情報と身体。

 区別はどんどん曖昧になっていく。

 使えるものは全部売る。

 使えなくなったものは、分解して売る。

 売り切れなかったものは、雨の中で腐る。


 高架めいた構造の下では、子供たちが小さな火を囲んでいた。

 化学燃料の残りだ。

 青白い炎が湿った空気の中で細く揺れ、雨粒に触れるたび白い蒸気を上げる。

 一人が咳き込む。

 別の一人が黙って背をさする。

 言葉は少ない。

 多くを話せば、そのぶんだけ余計なものを抱えるからだ。


 その光景を一瞥してみる、するとこちらを見る。

視線はすぐ外れる。

 見たところで手は差し伸べないとわかってるだろう。

 ここでは、見えたものを見なかったことにするのも礼儀に近い。

死なないための礼儀だ。


そんな礼儀だが通過儀礼だが嫌いで仕方がない。


 「嫌い...か」

 雨の中を歩きながら、ふと、自分がこの街を嫌っている理由を思い返した。

 いちばん大きいのは、いつも言葉がきれいすぎることだ。

 新しい楽園。

 再開発。

 安全。

 快適。

 持続可能。

 そういう言葉が上から降ってきて、下では血と雨で薄まっていく。

 中身は古いままなのに、表札だけが毎年新しくなる。


 そのたびに、古い人間が壊れる。


 そういう光景を、何度か見た。

 見たはずだった。

 いや、何度も、だ。

 忘れたくても、こういう場所では似た場面が勝手に積み重なる。

 壊れた誰か、売り払われた誰か、使い潰された誰か。

 ひとつひとつは違うのに、最後には同じ匂いになる。


 だから、男はここを信用していない。

 いや、街だけじゃない。

 きれいな名前を貼りつけたものの大半を、最初から信用していない。


 歩く。

 雨。

 ネオン。

 売り声。

 靴音。

 黒い水たまり。

 その全てが、ひとつの巨大な汚れの中で繋がっていた。

巨大すぎるから止む気はない。

この止まることのない雨のように。

 「花だって水が過ぎれば死ぬ...」


それでも雨は止む気配がなかった。

クロム・ガーデンの結構奥まった通路に到達したところで水は降り続ける。

上からの汚水だからな。

ガチャリ

 ぼんやりと赤い明かりが滲んでいた、そんな場所の扉を開く。

店名などない、錆びた鉄板と、剥げかけたビニールシートで囲われた窓とよぶべきか怪しいものだけの、みすぼらしい合成フードを提供する場所。

蒸気が上がり、油と化学調味料の臭いが雨の湿気と混じり合って、胃を重くする匂いを撒き散らしている。

 

 俺は濡れたコートの襟を立て、店先の金属製のカウンターに腰を下ろした。

 タン

義肢が、カウンターの縁に当たって小さな金属音を立てる。

「合成ラーメンヌードル。辛口で。タンパク塊多め」

 声は低く、感情を削ぎ落としたものだった。長年、こんな店で同じ言葉を繰り返してきた。味など期待していない。

 ただ、胃に何かを詰め込んで、義体化された体を誤魔化すためだけだ。

 店長の見た目は60過ぎの瘦せた男で、左目の半分がいかにも安物の義眼だった。

なんたって少しカラフルな色褪せたプラスチック製の材料まで見えていた。

ここまでくれば当然、もちろん衛生や綺麗さと関係ないことはよくわかる。

 今日もこいつは白髪混じりの頭を無造作に掻きながら、鉄板の上で食えるかどうか微妙な存在の人工肉の塊を押しつぶす。

もっともこれはあくまで元企業勤めの俺からしてゲテモノなだけだ。

「おう、ソルダート・ガイか。珍しいな、こんな時間に」

店長は俺のコードネームを、当然のように呼んだ。

ここでは本名など誰も知らないし、知ろうともしない。コードネームで十分だ。殺し屋の名前など、短命なものに過ぎない。

どちらにとってもそうだ。

 チャ

俺は煙草をくわえ、火を点けた。

「いつもと同じだ。仕事の合間だ」


「おいおい、あんた吸いすぎ」

 「構うな、タイショウ」

 そう聞くと店長は鼻を鳴らし、熱した鉄板に合成麺を放り込んだ。

 白く濁ったスープが跳ね、油の膜が広がる。

「しっかし仕事の合間ねぇ……また誰かを殺しに行くんだろ。お前みたいなのが来ると、店が妙に静かになる」

カウンターの奥では、もう1人の客がいた。フードを深く被った中年の女で、黙々と合成ギョーザを箸で突いている。

「...よく食えるもんだ、あんな塊だかなんだかわからんのを」

 彼女は俺の方を一瞬見たが、すぐに視線を逸らした。

ここでは他人の仕事に首を突っ込むのは愚か者のすることだ。

あいにく俺は最近首を突っ込みたくなる。


 「そうだろうタイショウ、長らく」


 「知らん、とっとと食え、冷めんうちに、夜の2時までには閉まる」

2時か、2時に誰か来るのか...または


トン

 店長は器を置いた。

麺を高く盛り、灰色のタンパク塊が3つ載せられて、赤い化学ソースがたっぷりとかけられている。

スープは濁り、表面に油が浮いている。合成フード特有の、人工的な光沢があった。


 壁にも使う。染色料の色だ。 

「ほらよ。いつもの辛口。タンパク塊はサービスだ。今日は在庫が余ってる」

 「3つだけか?縁起を考えて4に」

「いやしんぼめ、3つだけだ、なんなら本来2つだけだぞ」

 俺は少しむすっとした顔で受け取り、プラスチックのフォークを義肢の指で握った。

サービスか、別に今回限りで、死ぬつもりなんてねぇ。

「うっ」

熱い湯気が顔に当たるが、皮膚の感覚はすでに鈍い。

だから湯気で声が出たわけではない、このラーメンから出た化学製品の匂いで思わず声が出てしまった。

 一口すするも味、言うならば旨味はほとんどしない。

 塩辛さなんてレベルじゃない化学的な辛さが、嫌に舌に残るだけだ。

味と呼んでいいかも知らない。

 それでも俺は、ゆっくりとヌードルをすすった。

 胃に何かを入れるという行為が、まだ俺に生きているという実感をわずかに与えてくれる。

 

 店長は鉄板を拭きながら、ぼそりと続けた。

「最近、クロカワがまた動き出してるらしいぜ。感情シミュレータのプロトタイプが流出したとかで、街が少しざわついてる。お前も関係あんのか?」

 俺はフォークを止めた。

義眼、クロカワ社製の旧式義眼“サイバアイ209”が、わずかにデータを流す。

《注意》。

 全く、こいつは一応依頼をくれる側だ、別に情報を散らせるどころか、こっちに情報を...今のだと何かの暗示か暗号化。

 「知らん。俺はただ、言われた相手を殺すだけだ」

店長は低く笑った。笑い声は乾いていて、まるで錆びた金属が擦れるようだった。

 

 「相変わらず冷てえな、ガイ。それともお前はもう、人間じゃねえのか...なんだってそんなもんって顔してるぜ。あんたの心臓、まだ本物か?」


 その言葉が、胸の奥に小さく刺さった。俺はスープを一口飲み、ゆっくりと答えた。

「半分は義体だ。残りも、もうすぐ機械に置き換わる。人間だった頃の記憶など、ほとんど役に立たなくなる。」

 店長は義眼を光らせ、肩をすくめた。

「まあ、そうだな。この街じゃ、人間であることなんて、ただの負担だ。感情なんて持ってりゃ、すぐに壊れる。合成フードと同じさ。安くて、すぐに腐る、だから仕入れるには走り続けるしかねぇ...」


タン

器が置かれた音だ。


 カウンターの女が立ち上がり、無言で代金を置いて去っていった。

俺は器に残ったスープを飲み干し、最後のタンパク塊をフォークで刺し、口に運ぶ。嚙むと、ゴムのような食感がした。

 味はない。ただ、満腹感だけが、体に鈍く広がる。

「もう一杯、酒をくれ」

「了解」

 店長はカウンターの下から、透明なボトルを取り出した。中身は青みがかった液体。

 アルコール度数は高いが、味はほとんどない。

ジョロ ジョロ

 俺はそれをグラスを受け取り、一気に半分を流し込んだ、化学製品と呼ぶべきその液体は喉を焼く、そんな熱さがアルコールの成分と合わさって、俺から憂鬱を少しばかりは奪っていく。

 でも、胸の奥が、静かに疼いていた。

摩ってもなかなか落ちない、そんな痛み。


 「そりゃ食いすぎだ。」

「ご馳走さん、タイショウ」

 

 今夜、俺はミラージュを殺しに行く。感情のプロトタイプを盗んだ女を、企業から依頼されて始末する。報酬は7000万クレジット。

 こんな数字を見れば俺は、もう何の感慨も呼び起こさない。

それなのに、なぜか店長の言葉が頭に残る。

——心臓、まだ本物か?

俺はグラスを握る義肢の指に力を込めた。冷たい金属の感触だけが返ってくる。

この街は、すべてを腐らせる。人間も、感情も、希望も。俺もまた、その一部として、ゆっくりと錆びつきながら生きている。

合成フードの残り香が、鼻の奥にこびりついていた。安っぽくて、虚しくて、しかし俺はそれを飲み込み、立ち上がった。

「代金はいつもの口座に」

「ああ、わかってるよ、ソルダート・ガイ」

店長は手を振らず、ただ鉄板に向いて調理していた。

 俺はいつもなら感じない寂しさを少し感じた。

そんな中で雨の中へ、再び足を踏み出した。

コートの肩が、再び雨に打たれる。

「今日はやけに降るな。雨粒が重く感じるよ。」

どうやら胸の奥からくる疼きは、まだ消えていなかった。



30年も生きていれば、相当なことに出くわすはずだと、それが俺だった。



しかしどうも今日はおかしい気がする。


 34歳。

 ソルダート・ガイ。

 元企業保安所属。

 今は金で動く殺し屋。


 肩書きは短い。

 短いということは、余計なものを削った結果だ。

 削るには理由があった。

 生き残るため。

 判断を速くするため。

 感情に足を取られないため。

 だが、削れば削るほど、残ったものは案外しぶとい。

 たとえば、雨の中で子供の咳を聞いたときに、ほんの少しだけ胸の奥がざらつく。

 たとえば、安売りの声を聞いて、昔の空腹を思い出す。

 そういうものは、完全には消えない。

今日もまたそんなものを心のうちで温め直してしまったのだろうか。


 それでも前に進む。

 前に進まなければ、今度は自分が売られる側に回る。

 この街では、強さも正しさもない、結局はそういう理屈じゃ及ばない企業(コーポレーション)に回収される。


 やがて廃ビルが見えた。

ターゲットがいる場所だ。


 外壁は錆び、苔が張りつき、ひび割れたコンクリートの隙間から黒い水が流れている。

 入口の扉は半開きだった。

 守る気配がない。

 あるいは、守る必要がない。

 どちらでも同じだ。あとは殺すだけ。


ギコ

 中へ入る。


 外の喧騒が少し遠のいた。

 代わりに、水滴の音がはっきりする。

 天井の裂け目から落ちる雨が、一定の間隔で床を打つ。

 床には浅い水たまりが点在し、遠いネオンの残光を濁った鏡みたいに映していた。


 空気は重い。

 湿気。

 錆。

 焼けた回路の匂い。

 古い建物に染みついた、壊れる直前の臭いだ。


 拳銃を抜く。

 グリップは冷えていた。

 これでもクレジットが入れば、使い古した義肢は変えてる。

今日だってそうしたばかりで決してミスをしないようにしている。

 なら、迷うのは、そこに乗せる判断だけだ。


「顔を見せろ」

 奥に、淡い紫の光があった。


 そこに女がいる。

標的だ。


ミラージュ。

 クロカワ・コーポレーションが極秘に開発した感情シミュレータ・プロトタイプを奪ったもと従業員。

依頼は当初、生け捕りだったが、数時間前に変わった。殺害だ。

 報酬は7000万クレジット。


いい値段だ。

この値段じゃおそらく同業者も多く、今も隠れてこちらの様子を伺っているのも多いだろう。

 そこが迷いを生じさせてしまう。

 

世の中で一番悲しいのは貧乏じゃない、金があるのに一銭を使えずに死ぬことだ。


「いらっしゃい」

 古い金属椅子に座り、膝の上の小さな端末を静かに操作していた、そんな彼女が話をしていきた。

監視モニターでもあるのだろうか。


 「お前だな」

 銀色の短い髪が濡れて頬に貼りつき、黒いボディスーツの上に長いコートを羽織っている。

 左目の周囲には、薄い回路のような痕。

 それはタトゥーのようでもあり、接続痕のようでもあった。

ターゲットで間違いなさそうだ。


 男は銃口を向けたまま、立ち止まる。


 「……ミラージュ」

最後の確認だ。


 呼ぶと、女はゆっくり顔を上げた。

 驚かない。

 逃げない。

 その静けさは、怯えていないというより、怯える手順をとうに通り越しているようだった。


 「ソルダート・ガイ」


 彼女は名を返す。

 声は低い。

 抑揚が薄い。

 雨音とほとんど同じ温度で、でも確かにこちらへ届く。


ピシャ

 男は一歩だけ進んだ。

 水たまりを踏む音が、小さく響く。


 「依頼が変わった。殺せ、だ」


 女は端末から手を離し、ゆっくり立ち上がった。

 椅子の脚が床の水を引っかき、短い音を残す。


 「企業らしいわね、いえ今は違うかしら」


 それだけ言う。

はったりでははずだ。

 心拍数からして恐怖はない。

 ならばきっと動揺はない。

 だが、どうも完全に諦めているわけでもない。

 その曖昧さが、かえって気に障った。


「34歳...とプロファイルにはあるが...本当は...いいえ、なんでも、コードネーム、ソルダート・ガイ。元企業の保安部隊ウォードックス所属。現在はハンターこと、ただの雇われの殺し屋...ずいぶんと惨めね、捨てられてしまうなんて。」


 普通の標的なら、この時点で何かが崩れる。

 命乞いをする者もいれば、逆に強がる者もいる。

 だが、この女は違う。

 死を見せられているのに、まだこちらの反応を測っている。


 「何か言い残すことはあるか」


 形式として問う。

 返答の意味を探るためだ。

 逃げる気があるのか。

 時間を稼ぎたいのか。

 別の仕掛けがあるのか。

 その全部を、一瞬で見極めることはできない。

 だから、まず言葉を待つ。


 女は少しだけ黙った。


 「少しだけ、話を聞いてくれない?」


 その一言で、男は引き金を引かなかった。


 情に流されたのではない。

 仕事として、まだ早いと判断しただけだ。

 この女は落ち着きすぎている。

 企業がわざわざ殺し屋を送ってくる相手だ。

 ただの逃亡者とは違う。

 何かを持っている。

 何かを隠している。

 ならば、やはり己が直感を信じるべきだ。

すぐに撃つのは雑だ。


 「手短にしろ」


 女は頷く。


 「私は、感情のシミュレータを作っていた」


 知っている。

 依頼書にも、薄く匂う程度には書いてあった。

 だが、実際にその口から聞くと、少しだけ重みが違う。


 「企業は成功だと言った。反応は出る。再現率も高い。十分だって」


 彼女は一度だけ息を置いた。


 「でも、あれは全部、偽物だった」


 「何が違う」


 「残らないの」


 静かな声だった。

 怒りも悲しみも、はっきりした輪郭にはなっていない。

 ただ、何度も試して、何度も同じところで空振りした者の声だ。


 「痛みも、温度も、裏切りも。出力はする。でも、手に残らない」


 男は黙っていた。


 左目の端で、HUDが静かに点滅する。


 《異常なデータ干渉》


 干渉。

 言葉としては軽いが、実際には重い。

 これはただの会話ではない。

 何かが挟まれている。

 端末か、回路痕か、それとも女自身の声の癖か。

 いずれにせよ、完全に無害とは思えない。


  それでも、すぐには撃たない。

 俺には自信も覚悟もあった。

 「それで、俺に話す意味は」


 「ええ」


 女は答えた。


 「あなたは、そういうものを知っている顔をしている」


 曖昧だ。

「それがどうした、そんなもののために俺が命を捨てるとでも」


「ええ、そうよ」


 男は自分がそう見える理由を、少しだけ思う。

 昔から、そういう顔をしていたわけではない。

 もっと単純な顔だった。

 だが、仕事で人を殺し、命令で誰かを壊し、壊れた後始末を何度も見ているうちに、顔のどこかに残った。

 そういうものを知っている人間の顔。

何かを変えたい、死んだような顔、けれども決して絶望を抱いていない。

 しんみりしやすいものを抱えている、と言ってもいい。

 あるいは、世界に不満がありながら、それを正面から言うほど若くはない顔。

 そういう目つきは、隠しても案外残る。


 「交渉か」


 「違うわ」


 即答だった。


 「確認よ」


 「何を」


 「まだ、人間が残っているかどうか」


 その問いは、妙に抽象的だった。

 だから、胸の奥に引っかかる。


 少しだけ目を細めて見つめる。

女にもわかるほどだろう。


 殺してやるだけで片付けるには、何かが惜しい。

 感情の模倣を作っていた女が、今さら「人間が残っているか」と言う。

 皮肉のひとつでもあるのかもしれない。

お前が作った機械が人間の居場所を奪っていくんだぞ。

 だが、皮肉にしては重い。

 軽口では終わらない重さがある。


ガチャ

「動くな」

 女が一歩近づいた。


 危険な距離だ。

 狙いつけて、警戒するにも少し危険だ。

 距離ではなく、意味のほうが先にある。


 「お願いがある」


 「内容次第だ」


 「殺す前に、少しだけ触れてほしい」


 空気が変わる。


 「唇に。義肢じゃない、生身のほうで」


 男は黙る。

 拒否は簡単だ。

 銃を撃つのも簡単だ。

 キスするのも簡単だ。

 だがどれも裏がある。

打てば同業者と生存競争だ。

断ればやつが発狂するかもしれない、仕留められるのか。

キスは罠だろうか。

 簡単な選択ほど、あとから厄介になる。

 それは何度も見た。

 即断して助かった夜もあれば、即断して失った情報もある。

 どちらの経験も、身体に残る。

 だから、ここで一拍置く。


反応を確認する。

 女の目は揺れない。

 誘惑の顔でもない。

 脅しの顔でもない。

 命乞いとも違う。

 ただ、最後に確かめたい者の顔だ。


 「ふざけるな」


 男の声は低かった。


 「そういうので死んだ連中を知ってる」


 女は、わずかに笑った。

 上手くない笑い方だった。

 疲れている者の笑い方だ。


 「そうかもしれない」


 否定しない。

 その反応がいちばん厄介だった。


 「でも、あなたは今も迷っている」


 正しい。

 迷っている。

 だが、それは情ではない。

 仕事を雑にしたくないだけだ。

 この女が何者か、何を仕込んでいるのか、その見極めをせずに撃つのは、単なる短絡だ。

 短絡で済む現場と、済まない現場がある。

 これは後者に近い。


 男は一歩だけ下がる。


 距離を取りすぎない。

 だが、詰めすぎもしない。

 その中間が、いちばん面倒だ。


 「最後に聞く」


 女を見る。


 「それで何が分かる」


 女はすぐ答えた。


 「あなたが、まだ壊れきっていないかどうか」


 その言葉は、静かに落ちた。


 男は銃を構えたまま、左手をわずかに上げる。

 止まる。

 生身の指先が、かすかに震えている。

手を前に突き出す。

それは、ハントサイン

“止まれ”のハンドジェスチャー。


 雨が降っている。

 外では、まだ誰かが酒を探し、誰かがデータを売り、誰かが部品を抱えて立ち尽くしている。

 この街はそういう場所だ。

 何かを失ったまま、それでも流れ続ける場所。

一夜限りの楽しみなんていくらでもある。

だからキス、接吻で心を揺るがす訳もない。

ただわからなかった。

女の狙いが。

 未知は不安だ。


 しかしミラージュは動かない。

 待っている。

 こちらの判断を待っているのか、それとも、その手前にある一瞬を見たいのか。

 どちらにせよ、ただの標的の待ち方ではない。


「銃はこちらにある、当然決断権も」

 

「ええ、もちろんあなたの方にあるわよ、タフガイ」


 「..いいだろう、だがキスの意味を俺にわかるように言ってもらう。」


 「その前に契約と行こうじゃない」


「契約か、俺は依頼を止めたり、違反したりなんて」


 「私の首はあなたがもらっていいよ、なんなら感情プロトコルだって。」


 「プロトコルに興味はない、無駄なことに首を突っ込んでは死ぬだけだ。」


 「そう...じゃあまぁクレジット」

「言っておくが俺の用心棒は高いぞ、時間制だ。」

 「出すさ、でもまずはあなたの実力を見てから。」

「そうか、もうきたのか。」

 どうやら懸念していたことはすでに起こってしまっているようだ。

同業者はすでにここを囲んでしまっている。


 「いくらだ」


「そうね、一人...10万クレジット?」


 「引き受けたぞ。」

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