第一話 私、筆まめになります(3)
「なら、うるさくは言わないけどさ」
カミラさんは納得しない様子で、窓の外へと目を移しました。それを見て、リノアは慌ててカミラさんに呼びかけました。いつ、またあの妙な植物が窓から入ってくるか気が気ではなかったのです。
「ん、なんだい?」
「ええと、その」リノアは口ごもりました。声をかけてしまった以上なにかいい話題はないかと一瞬考え、それからすぐに、最初に会ったときに「ちょっと仕入れで」と、彼女が言っていたことをリノアは思いだしました。あれからだいぶ時間が経っていますが、大丈夫なのでしょうか。
「その、仕入れのほうは大丈夫なんですか? 早く行かないと、仕入れができなくなってしまうんじゃあ……」
「ああ、あの馬車のことかい?」
カミラさんは、診療所の前に着けておいた荷馬車をちらりと見て笑いました。開けっぱなしにしておいた扉から、馬具に繋がれた馬がのんびりと草をはんでいる様子が見えます。その後室にあたる荷台はまったくの空っぽでした。
「もう終わったからいいのさ」
「へ?」リノアは首をかしげました。
「今日は契約の話だけだったんだよ」
眉をあげてみせたカミラさんに、リノアは目をしばたかせました。「……ええと、なにか新しいことでも始めるんですか?」
「いや、たんに食材の仕入れ先をひとつ追加しただけ。ああ、お茶のお代わりをもらってもいいかい?」
リノアはひとつ頷くと、差し出されたカップに温かいハーブティーを注ぎました。それを飲んでひと息つくと、カミラさんは続けました。
「知り合いにどうしてもって頼まれてねぇ……よそに持っていっても、なかなか売れないみたいでさ」
「えっ、そうなんですか?」
その話は初耳でした。
リノアが以前ここに訪れたときに聞いたのは、ここは農産物が豊かなことで有名な村だ、という話でした。村の西側にあたる山脈からきれいな水が湧いてくるようで、それが野菜のおいしさの秘訣だと誰かが言っていましたっけ。それに、村の周りには王都だけでなくいくつか港もありましたし、きっとそこら中に出荷しているのだろうとリノア思っていました。
そのことを指摘すると、カミラさんは困ったように頬杖をつきました。
「そうなんだよ。ここもあんな噂さえなけりゃ、もうちょっと活気が出るんだろうけどねぇ。お陰でどうも、前に来たときよりも若い人が減ってるみたいだし」
残念なことに、その話も、初耳でした。
若い人が減っていた? そんなこと、ちっとも気づかなかったわ。リノアは後ろめたい気持ちでいっぱいになりました。
「ええと……噂って、いったいどんな噂ですか?」ひと通り苦しんだあと、リノアは訊ねました。すると、カミラさんは人目を気にするように辺りをそっと見渡した後、診療台に少し身を乗り出してささやくように言いました。
「いやね、あたしも詳しくは知らないんだけど……王都で露店やってる者なんかは、ここらの地方のもんを食べると変な病気にかかるなんて言ってるのさ」
「ええっ?」リノアは思わず、素っ頓狂な声をあげました。カミラさんの言葉と同時に、再びツルが窓から顔をのぞかせたのも驚きの理由のひとつでしたが、そんなことには構っていられません。リノアは憤慨したように言いました。
「そんなの嘘ですよ! 私、ここに来てもう何日か経ちますけど、この通り病気ひとつしていませんってば」
「だろう?」カミラさんは、まるでここに越してからのリノアを見てきたかのように、自信たっぷりに言いました。
「そんな噂、この村の人間を妬んだだけの、根も葉もない馬鹿な話なんだよ。この村の野菜はあいかわらずおいしいんだし、なんたって村の者たちの優しい心がこもってるからね」
「まあ、そこそこ優しいんじゃないかなー……とは、思います」リノアは曖昧に笑いながら、窓からそろそろとこちらに侵入をたくらむツルに、こっそり火の矢を飛ばしました。ツルは慌てて引き下がって行きました。
「でも、そんな酷い話、いったいどこの誰が言いだしたんでしょうね……」
さあねぇ、と首をかしげるカミラさんを横目に、リノアは複雑な心境になっていました。昔よりはマシになったと聞くものの、世間にはまだまだ薬医学の知識を持つ人は多くありません。根拠もなしに適当なことばっかり言って、とリノアは見えない相手に内心腹を立てましたが、火のない所に煙は立たず、と言います。なにかしら噂の種となることがあったに違いありません。
まずは情報を集めないといけないわね、と思いながらリノアが診療台に目を落とすと、
「うう……」
ティーカップの横に鎮座する分厚い手紙を見て、そういえばこれもあったんだわ、とリノアは小さくうなりました。
やるべきことは、どうやらたくさんありそうです。
◆・◆・◆
その日の夜、リノアはベッド脇に腰かけながら例の分厚い手紙を眺めていました。
すぐ隣の机からは、古びたランプの光がときおり揺らめきながら部屋の中を照らしています。その灯りで橙色で染まった封筒には、よく見ると金で細く模様が描かれていました。角度を変えると、絹糸のように線がきらきらと輝きます。
「ううーん……」
どこか魔方陣を真似たようにも見えるそれは、魔術師でなくても目を奪われる素晴らしいものでしたが、いまのリノアは目を奪われるというよりも、どちらかというと睨むと表現したほうが正しい目付きで手紙を見ていました。
「どうしよう」
そう呟いた後、リノアは背中からどさりとベッドに倒れこみました。その振動で埃が立ち、つんとしたカビ臭い匂いが鼻をつきます。それから、リノアは手紙を目の前にかざして、またうなり始めました。
実を言うと、リノアは未だにその手紙の封を切れずにいました。
なにしろ、差出人は三年間も放っておいた親友です。さすがに彼女も怒っているだろうと思い、意外と臆病なリノアは手紙を読むのが怖かったのです。手紙を持ってきたカミラさんは「早く読んであげなさいな。やけに急いでたみたいだからさ」と、言って帰っていきましたが、罪悪感でなかなか意思はかたまりません。
「それでなくても、相手はあのベティなのよねぇ……」リノアはぽつりと言いました。
リノアの見込みでは、絶対に手紙になにか細工が――例えば、開いた途端に目が染みて涙が止まらなくなったり、手持ちの薬草にことごとくカビが生えてしまう呪いがかけてあったり――あるに決まっていました。彼女は見習い時代からこの手の魔術については驚くぐらいに長けていたのです。いっそ治癒術師ではなく呪術師になればよかったのでは、とリノアは常々思っていました。清純な白魔法を使う人間が、どうして呪術なんてものが得意だったりするのでしょうか。人間、なにごとにも興味を持たないと成長しないわよ、というのは当時のベティの言葉でした。
「それにしたって、程度があるわよ」
なにが仕掛けてあるかって、開けるに開けれないじゃない、と不満をこぼしながらリノアが顔をしかめていると……、ヒュッ。
「――あれ?」
リノアは手もとから突然手紙が消えたことに、目を見張りました。慌てて部屋の中を見渡すと……、なんてことはありません、例のクロッカスから伸びたツルの仕業でした。すっかり忘れかけていましたが、植木鉢の置き場所をここ――リノアの私室に移していたのです。こんな状態の鉢植えをあのまま診療所の前に置いておいては、それこそ村の中で変な噂が立ちかねません。
「こら、なにするのよ! それを返しなさい」
リノアは慌ててベッドから立ち上がると、手紙を取り返そうとやっきになりました。ですが、リノアが手を伸ばしたところよりも頭ひとつ分ほど高い所に手紙があったので、取るにも取れません。すると、そうしているうちに鉢植えからツルがもう一本伸びてきて、まるでペーパーナイフのようにさっさと手紙の封を切り始めました。
「あああ! ちょっと、なにしてくれるのよ!」
思わず叫ぶと、「さっさと開かないお前さんが悪い」とでも言いたげに、片方のツルが左右に揺れました。それはまるで人が人差し指を振って馬鹿にしているようにも見えて、リノアはむしょうに腹が立ちました。ただの鉢植えのくせに、なんて生意気な生き物なのかしら。あなたがクロッカスじゃなかったら、とっくに捨てているところだわ。
リノアはいらただしげに鼻をならすと、魔術用の杖を取り出して鉢植えのほうに突きつけました。
「いいこと? 私の言うこときかなかったら、あなたなんてすぐ真っ黒な炭にしちゃうんだから。杖を使ったら昼間の術なんて目じゃないわよ。わかったら、それをさっさと返しなさい!」
その恐ろしい言葉に――実際はリノアが浮かべた表情に、だったらしいのですが――おののいたらしいツルは、ぱっと手を離すように手紙を床へと置きました。リノアは素早く手紙を拾うと、汚らしく破けたところを見てがっかりと肩を落としました。
「……せっかくきれいな封筒だったのに」
リノアもちょっとぐらいは封筒の模様が気にいっていたのです。それに、さんざん渋ってはいましたが、ベティの手紙は自分で開けたかったというのもありました。
「まぁ、お陰で決心はついたけどね……」
リノアは弱々しく呟きながら、封筒の中身をのぞきこみました。
便せんを開いてみると意外にも――便せんがやたらと詰まっていることはのぞいて――ごく普通の手紙で、リノアはちょっと拍子抜けしてしまいました。材質も普通の紙のようでした。
ただ、どうしたわけか全体的に殴り書きしたような文字でつづられており、ベティらしくない字だなとリノアは不思議に思いました。リノアが覚えている限りでは、彼女はもっと丸っこくてかわいらしい感じの筆跡だったはずです。どこか慌てて書いたようにも見えますが、カミラさんが言っていたようにベティはよっぽど忙しかったのでしょうか。
「それなら、こんなに一気に書かなくたっていいのに」
まるで薬師機関での診療票か月末の報告書のような厚みです。リノアはうんざりとした顔で束になった便せんをめくり始めました。そのどれにも『いったいどういうつもり』だとか、『連絡も寄こさないなんて』だとか、『いつか絶対呪ってやる』なんて言葉が読みとれて、リノアは顔を引きつらせました。どうにも、ベティの三年分の恨み辛みがこもっているような気がします。
「…………、よし」リノアは一度、大きくうなずきました。「あとで読もう」
リノアは速やかにベティからの手紙を机の引き出しにしまいこみました。すると背後からなんとなく、刺すような視線を感じて肩ごしに振り向くと、そこにクロッカスの鉢植えがありました。
「ち、ちがうわよ、あとで読むんだってば!」訊かれてもいないのに、リノアは怒ったように言いました。「だいたい、手紙ってものはそう慌てて読むもんじゃないでしょう? 私は親友からの手紙はゆっくりと読みたい派なのよ。その……傷を負わない程度に!」
勝手にまくしたてるリノアをよそに、ツルがちょいちょいと床をつつくようになにかを指し示しました。
「……なに?」それに気づいたリノアは、訝しみながら目線を下に落としました。「あら、これって――」そこには、一枚の羊皮紙が落ちていました。
リノアは顎に手をあてながら、床のほうにかがみこみました。それから机の引き出しにしまった手紙のほうにゆっくりと振り返ります。
「なにかしら、これ」
床の上では、封筒と同じ金の模様が、揺らめく灯りに輝いていました。